鎌倉時代に成立した古今著聞集によると、御室(仁和寺)に「寵童」「上童」と呼ばれる「兒(ちご)」がいた。
当時の寺内の階級は、公達−童形−房官ー修学者(学問僧)−侍で、「童形」つまり、稚児は公達に次ぐ地位にあった。
また、稚児の中にも階級があり、
①清華家(最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する)などの子
②房官(門跡家(その寺の長)などに仕え、事務に当たった在俗の僧)の子
③侍の子、武士の子
④人買いに買われた(謡曲「桜川」「三井寺」などに詳しい)、もしくは農家などから行儀見習いで寺に上がった子(宇治拾遺物語 1-13 田舎の児、桜の散るを見て泣く事)
等がいた。
公家出身の稚児とその他の稚児は、眉の書き方、服装などでその他の稚児と区別されていた(服装や化粧については別の章で説明する)。
稚児を上中下で分けるとき、上から公家、房官、侍とされる。
ただし、北面の武士の子(稚児)が上童とされる例もあり、そうなれば公家、房官、侍の上稚児と
農村出身、人買いに買われた平民の単なる稚児がいたと考えるほうが自然かも知れない