メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林⑤」『霊肉を凝視めて』より

 哲二が凋れかへつて家にはいつてゆくと、もう酒の支度ができてゐた。
 海の水ですつきりとした氣持になつてみると、あだつほいおたつよりも、ぎごちない倉吉爺の顏の方が やつばり哲二の氣に入つてゐるのであつた。お人好の爺に對して、しやあら/\として何も喰はぬげなおたつの顏つきが 彼には忌やにさへ思はれた。哲二は、まともに倉吉の顏をみることは、氣がとがめてどうしてもできなかつた。
 爺の腕入りで、赤いかけぎれや半襟の雄びた小娘たちが二人ほどやつてきた。倉吉は 哲二の軍服や軍刀を自慢らしく持ち出して娘たちに見せたりした。
「それみな中尉さんにお酙しろ。中尉さんのな………これ、中射さんの………うむう、お盃でも頂戴しろや………あんてまあぼや/\してるだつベなあ。それ、ちやツちャと、ちやツちやとやれツてば、このあまツ子めらア」
 倉吉は娘たちを叱りながら、トラホームのこぢれで臛れあがつた眼頭の肉をしばたゞくきながら、


 ちらり/\と哲二の顏をみた。哲二が娘たちには何の輿味もないやうに素ッけない顏をしてゐるので、今度は、倉吉が娘たちを持てあましてぼんやりしてゐると おたつは氣をきかして娘たちをこそ/\と歸してしまつた。
 五月には珍らしく好く晴れた日であつた。碧の空と海とが一やうに融けこんでゐるあたりから、薄綿のやうな雲が折り/\這いだして、海の面に黑い影を流しながら、北の方へ動いて行つた。海の匂を含んだそよ風が、たえ閒なく吹いてきた。
 おたつは、いつの問にか、銀杏返しに結ひ直してゐた。小意氣に掛けた奴元結が、しつくりと似含つていゝ感じを與へた。顏にはほんのりと、襟足には思ひ切り、濃くつけたおしろいが、それしやの匂ひと、ほこりを見せてゐた。酒に醉つてくると おたつの美しさが沁々と見えてきた。おたつは、ぼつと酒ぼてりのした顏を、海から吹きあげてくる風に吹かせながら、倉吉の大きなコップへほか/\と注ぎこんでゐた。
 倉吉は もう何の性度もないほど醉つ拂つてしまつた。
「ほ—れ! おた—アつ! 中尉さんさお酌うしろ。ちやツちやと。」
 呶嗚るやうに云つて、圖太い胴をぐら/\とゆすぶつた。
「な、なにが不足だと? このあまめッ! ねてえまゝ、おきてえまゞでけつかつて……」 
 倉吉は波々と注いであるコッブを持つた手と、太い胴ッ腹とをおなじやうにゆす振つた。おたつは注ぎ切つた德利を、かたんと飯臺の上におきながら、
「何が不足だもないもんだよ……この人は、まあ……本當に忌やらしいよ!」
 ちらりと倉吉を睨んで、返す眼で哲二の方へ、につこりと笑つてみせた。
「あんだと?  そんなまなくしやがつて。あゝげ一えッ、ぶ—うッ。よかい! よかい!」
 倉吉の眼は、何をみるともなく半ば開かれて、からだがぐた/\に動いてゐた。哲二とおたつの眼は ぴつたりと合つて、にやりと笑ひ交した。
 九谷で金模樣のある小さい盃は、倉吉の前を大びらに手から手にかはされた。
 倉吉は、何か呶嗚るやうな顏で唄ひだした。かと思ふとまた、眼を細くし、眼尻に皴を寄せ 厚つたい唇をとがらせ、大きな鼻の孔を眼立つほど大きくして、耳たぼのわきのほくろの上に簇つくりと生えてるごま鹽色の毛をふるはせながら、細いやさしい聲を絞りだした。
「さんんさあしィ……ぐゥ……れヱ ……かア……かア あゝやャ野ォのォ……雨ヱ……かア……
 おたつの手拍子と、倉吉の荒つぽい手の音が、調子を合せた。おたつの聲もふるつてゐた。 
「はア、おつけろ、おつけろ、おやまかちャんりん、お豆は、はたちだ………」
 哲二も二人のまねをして手をたゝいてゐた。おたつは、まち構へてゞもゐたやうに、 
「おとツつアん、お骨折りッ!」
 倉吉の耳のそばへ、小さなロをよせて、かう云つてから、コップの酒を倉吉の大きなロへ流しこんだ。倉吉は、げふんと咽せながらも 快よげに笑つた。
 おたつは、竹箸で挾みあげた煮肴を、倉吉の鼻先きに突きつけて 「ああん!」 と紅のロをあけたと倉吉は、まつ黑な齒と赤い齒ぐきをあらはして 「ああん」と云ひながら、あけたロに、その肴を放りこんでもらつて、むしや/\とかんだ。おたつは、おなじやりかたで哲二の方へも出したが 
哲二はさう氣輕るにロをあき得ないで、きまりの惡い顏をしてゐると、おたつは、「あ一ん」と米粒のやうな齒を出して、催促するやうにやつて見せた。で哲二は思ひ切つて口だけはあけたが、「あーん」と云ったやうな聲などをだすことは 、どうしてもできなかった。
「こづらのにくいほど恥かしがりやなのねえ。軍人のくせに。」
 おたつは、勝ちほこつたやうにかう云つて、箸を大皿のなかへ放りこみながら 、わけもなく笑ひこけた。倉吉の眼はどんよりとすわつて、ものを見る力などはなささうにみえた。
「俺え、コップさで醉はせてどうすろ氣だ? この女郞が! にしらは俺えどうすろ氣だ? こうれ!」、
 釜火のあたつた太股のあたりに、はみだした褌などには何のおかまひもなく、 どこをみるともないとろんこの眼を、ひどく怒らせたりした。おたつは、忌やらしいと云つた眼 配せで、哲二に頷いて見せてから、
「どうもかうもありやしないよ。そ—ら! 渡邊さんの御返盃なんだよ………旦那のお盃なんだよ……確かりとしなさいよ……だらしのないことは、ねえ!」
 倉吉が鳥肌になつてる咽つたまのあたりを、動かしながら コ ップで顏を覆ふてゐると、おたつは哲二にとろりとした眼を向けて、氣持よげに笑つた。
 閒もなく、倉吉は、大きな體を橫に倒すと、死人のやうになつてねてしまつた。とおたつは片手 で、胸を押へるやうにしながら、哲二の手を、ぎゆつと握りしめた。……
 ごた/\に喰ひ荒らし、飮み荒したあとの臭氣を、海からくる風がほどよく吹き散した。

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