メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助随筆集について

こんにちは。メガネです。

文学フリマ東京39のもう一つの新刊は『綿貫六助随筆集』です

これは年の初めに入手した雑誌『宇宙』というものに綿貫が随筆を幾篇か寄せていて、
これも自分一人で持っているのも何なので、
文字起こしして本の形にしました。
作品は、「文士代議士運動」「雷雨と蜩」「銀座ものがたり」「蜀山と一九の話」「別所観世音縁起」「円タクと美人」「ある僧院の生活」です。

気になる中身の序を紹介します

 

文士代議士運動

 
 文士の代議士運動――とじ籠った自己の位置を踏破る、と云う観点から決して悪い事ではない。有力な文士のそういう方面の事が、評論創作に取入れられて、三味線芸者やカフェー小説に、更に加わうる処があれば誠に望ましき事である。
 創作に政治的方面からの題材が取入れられるのは極めて良き事であるが、それは文士が更に政治家として活躍する力をもった後の事である。
 外国にもそう云う例は古くあった。が、目下の処は、進展急速なる思想、政治に別して文芸は発酵不充分、立ちおくれの姿ではあるまいか。日本無産派の文芸なども大にこれから前述の道に進展すべき将来を有する。
 

 

 

雷雨と蜩

 
 
 ざーあ、ときた横吹き雨が、勢を増して、どうどうと衝落す、宛るで白金(プラチナ)製のすだれを宇宙に充滿させて、それを烈しく引掻き乱したようである。それでいて、西の方には薄れ行く雲の奥に、濃碧、無限な初秋の空が見え、雨の断続するそのひまには、乾燥したあかるみのある蜩の聲がひびく。――
 兎爺さんは、知己のところへ雇われて、土運びだか檜葉刈りだかに出掛けた。その爺さんの――「女をそとで稼がせる意気地なし野郎があるもんか。俺が日雇稼ぎをしても、三人や四人の家族は」――と云う意気込みのおかげで、派出先からもと通りに帰宅した妻は、末子を連れて買物に出掛けた。總領は田舎へ帰っているし、娘は女子大の軽井沢の寮舎に行ったし、次男は昨夕、澤村一門と支那へ興行に出掛けたから、私は今一人で甫と林の立交っている郊外の長屋に雨をみたり、蜩をきいたりしているのだ。
 

 

 

銀座ものがたり

 
 
  今のモダン雌雄たちは、夢にも知らぬだろうが、私どもの初めて東京をみた頃には、新橋駅から上野、浅草と三点を連絡させる鉄道馬車があって、曲り角あたりでは殊に、がらんがらんがらんと鈴(ベル)を鳴らして馳けていたものだ。そのあいまには、円太郎馬車があって、テトテトテト、、、と今の豆腐屋のラッパを響かして転びあるったものだ。
 雨宮だの藤山だのが、電気鉄道と云う言葉を振翳して大騒動をやったのは、その後の事である。
 本所あたりでは、九銭出すと、赤飯だの、大福だの、お稲荷さんなどを、お腹の空いた二十前後の威勢旺んなからだへ一ぱいに充め込むことのできた時代である。
 

 

 

蜀山と一九の話

 
一、二人の素性
 
 蜀山人は、幕臣で、俗名太田直次郎と云ったそうで、文章遊戯を好み、狂歌をよくしたと云われた人。
 一九は幼名幾五郎、重田貞一、小吏をやめて転顛(てんてん)、遂にあの有名な「道中膝栗毛」を書いた人。
 双方共にお役人で、特色は異なっているが、至極仲のいいお友達。
 
二、お友達になりはじめ
 
 何れも一風変わったこの名人のお友達になりはじめが奇抜です。
 ある日のこと、某会場で、蜀山人十返舎一九が、ばったりと出会いました。
「やッ、先生ッ!」一九は、滑稽な顔を少しく歪め腹立たしそうにこう云い掛かります。
「やあ、先生! なんぼ貴方が大先生でも、あんまり、人を馬鹿にしてはいけませんぜえ!」こう無暗に突掛りますから、有繁(さすが)、滑脱な蜀山も、ちょいと面喰って、ぱちくりと一九を見ました。
「君が十返舎か、まあ、なんだね?」
「なんだねッ?……なんだねもありますかい! 人がわざわざ初めて訪問したのに、四時間(にとき)あまりも待ちごけを啖(くら)わせるなどは、ちと失礼じゃごわせんか!」こう云われて、蜀山は初めて相好を崩してぽんと膝を叩きました。「ああ、このじゅうの事かい。貴公こそこの老人を嬲りものにしているんだよ。」
「そんな事はありませんよ。こちらが、先輩と思えばこそ、わざわざお尋ねしたのに、挨拶なしで、何時までもいつまでも待たせるなどは、随分……」
 蜀山は微笑しつつ、一九の怨言を大きな手を振って遮って、「そこだて……まあまあ聞かなくっちゃ解らん。貴公が有名なのは、兼てから識っていたよッ! そこへ折よく来てくれたから、大に話そうと思ってな、まあ何しろ、酒屋へ使をやろうとすると、そら、私の事だ、御承知でもあろうが、あんときもまた嚢中無一物さ。質屋へ大部運び空らした空っぽの座敷から、何かないかなあ! と見廻しているうちに、ふッと眼についたのが、庭の手頃な桐の樹さ、それを下駄屋に掛合って金に代え、貴公に飲ましょう根丹の最中に、貴公はひど過ぎるよ、断りもなく帰ったじゃないか! そう云う訳で折角どうにか酒は手に入ったが、あとでつまらなく一人で飲ってしまったんだから、私の方にこそ、言分(いいぶん)があるぜッ!」こう滑抜けての逆捩で、一九も降参して頭を掻きました。「そうでしたか、それはすみませんでげす。」で、この初対面から二人は昵懇(じっこん)になりました。
 
 

 

 

別所観世音縁起

 
一 別所観音の位置
 
 別所厄除観世音は、上毛川場村別所村の西北寄りの高見にあります。
 白金色に淀んだ洗場や銀色に奔躍(おど)る流れに沿い、根芹を浸す水を横切り、橋を渡り、桑畑と麦畑の間の石段を昇ると、正面が、燃立つ如き赤の鬼面を棟にかかげた厚茅葺きの観音御堂、その左手が、中興開山大阿闍梨雲外法印から第二十九代目栄全法印の庫裡で、御堂の右手は、参籠堂の板葺小屋、荒壁の小さな土蔵、その間には、参詣者の心を浄める水舎(みずや)、静かに宝鏡を湛える池、白金の玉を散らす噴水、碑、像、種々な樹木などが、雑樹林の山を背景にして一種の威厳を漲(みなぎ)らしています。
 十幾年か前に、登山好きな私が、武尊(ぶそん)山の頂上から衣匣(ポケット)に容れてきて植えた高山植物姫松? は、その頃二寸ほどの草のようなものでしたが、今視(み)れば幹は腕太、二尺四方位なこんもりとしたものに繁って、私にほほえみ掛けました。
 境内からは、裾の線がおおらかに伸び頂巓(ちょうてん)には深味のありそうな赤城を左に、利根の碧流を隔ててそれに向う子持を右に、虚空蔵山を低く正面に、それらの上に、遠く、ほんのりと薄墨のように富士の嶽を望み、近く、眼下には、仙境の如き川場全村の谷や川や田畑や家が、美しく瞰制(みおろ)されます。
 

 

 

円タクと美人

 
 
渋谷の西の中里にMを訪(と)いましたが、いないので夜なかまでまちあったが、肝甚かなめな話もおるすで、脱線のエロチックなお話に夜を更かして、停留所にいってみると、もう電車はたえて、シンとした斬條(きじょう)の暗がりに、ランプの赤い眼が、灯の幽霊地味な格好で光るともなく浮いています。
三軒茶屋あたりでチャルメラを呼びとめ、支那そばを食べ、それから、夜のみえぬほこりの街道を高足駄(あしだ)で、カランカラン歩きましたが、渋谷から武蔵線の長崎までは容易な事ではありません。
「こいつあ、夜があけてしまう」と気づいて、ひょいと立ちとまり
「こう云うとき円タクでもあればいいが!」
 何しろ夜の二時、おまわりさんが白く立っている位なもの、円たく所ではありません。
 支那そば一ぱいでは、腹はへる、金はなし、現役時代の夜行軍もいいが、雫の垂れるような縮みの古単衣、猿又も褌もないから、ぶらぶらして歩きにくい事おびただしい。戦争当時の元気の出よう筈がない。渋々として進退これ谷(きわ)まったかたち。
 ――やおよろづの神々、おほとけさま! どうぞ今夜を無事に呼吸(いき)して過ごせますよう!――
 もの売場の跡らしき空地に掛捨てられた葭簀(よしず)のかげに首を入れてみたが、芬(ぷん)と異ような臭気。放浪のゴルキイでも気取って空舟でも捜そうかと、ふッと街道に出ると
「あら、何してなさるの? 早く私のところに帰っておとまりなさいよ」と云うのがMの所にいる美人。結綿の古風下町造り、凄いほど色が白いからあたりは急にぱッと光明が射したよう。

 

 
 

ある僧院の生活

――会津天寧寺住職 大澤鳳鱗氏――

 

一 拈華微笑(ねんげみしょう)の秋宵
 
 会津平野を一望にみて、雲上の気凜が籠る、ここは、楠木正成の孫、楠木傑堂大和尚開山の、会津東山万松山天寧寺、その老僧は枯骨秀麗な大澤鳳鱗その人である。こうして、有名なる僧院の初夏の夜があけはなれた。
 した寺幾十ヶ寺の住職参集、例年秋の座禅会も果てた。方々の住職たちは、衣鉢を信玄袋あるいは鞄に容れ、遠きは高帽会津紋平袴、草鞋脚袢(わらじきゃくはん)、近きはカッパ羽織に白襟を窺(のぞ)かせ朴歯(ほうは)の下駄で帰って去った。
 秋は深みまさり、栗、松茸などの季(とき)となり、その地方で盛に行われる「芋煮」が方々の松山紅葉林で始まった。その昔は、本当に、鍋をさげてゆき、山で松葉をたき茸を焙り、芋を煮ての地廻りで、玄女節、会津大津絵、踊の手振り音調地方色濃厚なのであったが、今は左褄(ひだりつま)や金棒曳(かなぼうひき)の大髻(おおたぶさ)を扈従(こじゅう)に、茶屋遊郭に練込むのもあって、それ相応に華美に流れたが、他の追従を許さぬ会津盆地の遊民気分に変わりはない。
 こう云う秋にも、天寧寺は、会津の上に静かに立っていた。けれども、そこに人あり、煙たち、而(しか)して恋(ラブ)なからめや。

 

 

どうぞお楽しみに、