メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

季刊男色 稚児の生態

まえがき

『季刊 男色』で稚児特集をしようと思ったが、思いのほか稚児に対する資料へのアクセスに手間取り、結果、「稚児物語の稚児」という形でまとめることになった。
 「稚児物語の稚児」を上梓した後も、稚児の身分などに引っかかりを覚え、頭から稚児が離れなくなったので、再び資料を集め、稚児の階級や服装、寺院での生活や規律などをまとめる事とした。
 「蹇驢嘶餘」、「右記」、「日本仏教における僧と稚児の男色/平松隆円」「中世寺院の童と兒/土谷恵」「兒絵について/森暢」を中心に、稚児の生活について見ていきたいと思う。ただ、編集している今でも自分の説の正しさというものが感じられず、素人の考察でしかないことをあらかじめご理解いただきたい。

 


稚児の身分

鎌倉時代に成立した古今著聞集によると、御室(仁和寺)に「寵童」「上童」と呼ばれる「兒(ちご)」がいた。
なお、土谷恵氏「中世寺院の童と兒」によれば、当時の寺内の階級は、公達−童形−房官−修学者(学問僧)−侍で、「童形」つまり、稚児は公達に次ぐ地位にあった。

また、兒の中にも階級があり、
清華家(最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する)などの子
②房官(門跡家(その寺の長)などに仕え、事務に当たった在俗の僧)の子
③侍の子、北面の武士の子

がいた。
公家出身の兒とその他の兒は、眉の書き方、服装などでその他の兒と区別されていた(服装や化粧については次の章で説明する)。

公家などの兒のほか、人買いに買われて(謡曲「桜川」「三井寺」などに詳しい)稚児になったもの、もしくは農家などから行儀見習いで寺に上がったもの(宇治拾遺物語 1-13 田舎の児、桜の散るを見て泣く事)などの存在もあった。
現在では一概に稚児といわれているが、公家などの兒と、行儀見習いのために寺に上がった(当時の寺の行儀作法などは無料であった)農村など平民出身の稚児、人買いに買われた稚児は明らかに身分が違うので、相応の区別があったと思われる(Wikipediaでは上中下で分けている)。
また、稚児ではないが、寺院には童形で仕事につくものが多くいた。例えば、稚児と似たような姿をして、僧侶の世話など多岐にわたる仕事をした中童子、一生童形の姿で、主に下仕えを担った大童子など、土谷恵氏「中絵寺院の兒と児」に詳しい。


稚児の装い

■稚児の髪形
秋夜長物語や稚児観音縁起絵巻の稚児は「垂髪」、歌川国芳が描いた「寂蓮」の側にいる少年(稚児?)は「喝食稚児」、歌川国貞、豊原国周など様々な浮世絵絵師たちが描く牛若丸(源義経の幼名。一時期寺の稚児をしていた)は、「稚児髷」と、稚児の髪型といってもさまざまある。

「垂髪」は特に公家などの上位の稚児の髪型。
「喝食稚児」は稚児だけでなく、武家の子弟の髪型でもあった。
「稚児髷」は牛若丸の絵ではよく見かけるが、筆者が見た絵巻物ではあまり確認できなかった。現在の稚児行列などの子供の髪形ではよく見かける。
時代か人かに特徴的な髪型だったのだろうか。 

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■稚児の化粧
「日本仏教における僧と稚児の男色/平松隆円」によると稚児の化粧のはじまりとして「雍州府志」で、

堂上の男子、十六、七歳に及ぶまで眉毛を剃り、別に突墨をもつて双眉を造り、白粉をもつて面顔を粧ふ。鉄漿、歯牙を染め、臙脂、爪端に伝る。

つまり、
眉毛を剃り、墨で眉を描き、おしろいを塗り、お歯黒をして、爪をえんじ色に染めたとある。
驚くほどのフルメイクである。また、「蹇驢嘶餘」によると、公家とそれ以外の稚児で眉の書き方が違っていた(下図)。

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化粧で、身分差を出していたようだ。

 

■稚児の服装
「蹇驢嘶餘」によると、
一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

とある。
公家の稚児は白い水干を、武家の稚児は長絹を着た。衣服でも稚児の区別があった。水干と長絹の違いは左図を参照のこと。襟の部分が違う。

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また、貫全という人が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉で
・空色の水干
・結花(普段は黒い糸だが、黒い糸ではなく空色の水干やその時に応じた色とりどりの糸でくくった)を菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)にした
・履物は金剛草履
という格好をしていた。

また、『絵巻物による日本常民生活絵引5巻』によれば、稚児は古くは水干を着ていたが鎌倉末になると童水干に袴をつけたものが多く、できるだけ女に近い姿をさせられていた、とある。


■水干の柄
「児絵について」(『鎌倉時代肖像画』森鴨/みすず書房)から、稚児の水干の柄についてみていこう。
ちなみに、児絵は天台寺院に所属した稚児の姿絵の肖像図巻で、他の資料と照らし合わせれば、絵に描かれた稚児の身の上がわかるようになっている。
絵の中で、稚児の水干に描かれた模様は、梅、桜花、流水、柳、草花、蝶、藤花、萩ニ籬(まがき)、紅葉、菊、格子、格子に花、草葉、水ニ葦、萩と、多くは四季の草花を描いた伝統的なもの。
またその図は、朽葉、紫土、白、白緑などの色合いの生地に、金、銀、緑青、白緑、朱、群青などの色で描かれている。
ある稚児の水干には、地に「銀クマ(限)」が施され、梅には「梅バチ朱、所々シト(紫土)」とあり、袴には「シト(紫土) コク」、下重には「シト(紫土)ウスク」とあって、花文が見える。
ほかの稚児も縫物によって彩られた文様の華麗な水干をまとっており、図巻が稚児の風貌を写すことに加え、衣装の美しさを描き、衣装にも関心が寄せられたことがわかる資料となっている。
他にも例が載っているので、稚児の水干の色合いなど気になる方は(カラーではないので文字情報ですが)「児絵について」(『鎌倉時代肖像画』森鴨/みすず書房)を参照の事。 

 


稚児の生活・掟

後白河天皇の第2皇子で仁和(にんな)寺に入った守覚法親王が著書「右記」において稚児のふるまいなどについて言及しているのを見ていく。


・明け方早く起き、手を洗い、口をすすいで身を清める。毎日欠かさず『般若心経』や『寿命経』、『普門品』等を読む。
・次に大師の法楽のために、孔雀明主の真言ならびに宝号遍照金剛、これを唱誦する(真言宗の寺だからか)
・師の僧侶に従い、和歌などを習う。
・稚児でいられるのは17~19歳まで。
・書写の時小刀を書上に置いてはならない。
・飲み残した湯や水で口をすすがない。
・帷帳ならびに幔幕(まんまく)で手を拭かない。
・畳の縁を踏まない。
・畳筵の裏を踏まない、またそこに座らない。
・箸を楊枝として使わない。
・米のとぎ汁を硯水に使わない。
・酒を硯水に使わない。
・諸箱を枕にしない。
・内典外書ならびに和漢抄物及び手本などの書物は直に畳上にそのままに置いてはいけない。
・末日に爪を切らない事。一日の間に手足の爪を一度に切らない
・衣装で一切の物を拭かない。
囲碁、双六等の諸遊、鞠遊びや小弓等の事は無闇にこれを好んではいけないが全くできないのもいけない。
・稚児の時から管弦音曲等に親しむことは、剃髪の後に、声明、習学の時、もっとも大切である。
催馬楽、今様などの音曲を鑑賞すること。
・肉・魚を食べるときは寺の業務につかない。酒は大丈夫。韮 (にら)、葱 (ねぎ)、蒜 (にんにく)、薤 (らっきょう)、薑 (しょうが)も食べてはならない(臭いがだめらしい)。
・里帰りは10日以内。
・一詩歌会の時、懐紙を用意する。
・そして懐紙は、中でも美麗であるべき。無風流でただの檀紙を用いる事は無下に思われるので、下絵の檀紙ならびに薄檀紙等、その外色紙は極めて美しくする事に怠りがあってはならない。
・衣装等の事は和漢会席の出仕の時、殊に鮮やかにするべきである 。
・二月十五日の涅槃会、三月二十一日の御影供、四月八日の灌仏会、七月十五日盂蘭盆会、二季の時正の仏事、その外、舎利会件の日は捧物一種をもって仏前に備えるべき。
・但し、結縁灌頂の時は仏前に備えないこと。


以上述べたように、生活や普段の行いなどにかなり厳しい規定があったようだ。
食べ物について、肉・魚のほかに韮 、葱 、蒜 、薤 、薑が禁止されていたことが驚きだった(これは僧侶も禁止されているらしい)。また、里心が付かないためか里帰りの期間が定められていることも興味深い。
全体的に身だしなみや行いは、整然としていなければならなかったようで、子どもにありがちな行動(服で手を拭くなど)、本の扱い、硯に水以外を入れないこと(酒で墨をするものがいたとはびっくりである)など、現代でも通じるような禁止事項があるのが面白い。
生活としては、朝早く起き、御経を唱え、手習いをし、音楽を学ぶ。涅槃会などのイベントに参加し、稚児の仕事を担い、会席の出仕の時には、外向け衣装で参加するなど、日々忙しく過ごしていたのだろう。

勉学などについて、「稚児・若衆」(國文學―解釈と教材の研究―)によれば、稚児には、学芸が要求され、特に歌や器楽、蹴鞠などの諸芸に通じることがよしとされたとある。飯尾宋祇の作といわれる『児教訓』には、「小歌、曲舞あとさきの、とめふし合わぬ謡ひをば」「碁、将棋、双六、尋常わざの事なれば」「酒宴の座にもなりぬれば、当世はやる乱舞にも……、小太鼓をうつつにも、夢にもしらで謡ひをば、しほがら声にたてふしを、拍子はづれに」「さすがに能のつきたさに、弓、鞠、連歌、兵法に、心を少し、かけ帯の」と、稚児の生活を批判している。
遊芸を通して、稚児が諸芸に通じていったことがわかる。

(右記の解読には蛙堂のznzi様のお力を借りた。この場を借りてお礼申し上げます)


稚児が出てくる説話

室町期に成立した稚児物語は僧と稚児の悲恋物語が主だが、他にも、稚児にかかわる物語はたくさん存在する。有名なのは、宇治拾遺物語。「児の掻餅」は有名で、中高生の古文でよく見かける。ほかに、「きのはけふの物語」「醒睡笑」(ともに江戸時代成立)にも稚児の説話が多くみられる(食べ物ネタが多くほほえましい)。例に挙げたのはわずかで、他にも秀逸な話がたくさんあるので、ぜひ「きのうはけふの物語」「醒睡笑」を読んでいただきたい。
調べていて面白かったので、男色の話だが(しかもかなり下ネタ。すみません)男色江戸小咄群録もあわせて紹介する。
行儀見習いで寺に上がっていた稚児たちが変なあだ名で呼ばれているのを、親が不思議がり、親に問われて、稚児が嘘をつく。それを真に受けた母が(天然なのか意趣返しなのか)それを口にして寺の人間がぎょっとする話など。
「児の掻餅」のように愛でられる稚児もいれば、不当なあだ名をつけられたのを耐えていた稚児もいたことがわかる。 


宇治拾遺物語1-12 児(ちご)の掻餅(かいもち)するに空寝(そらね)したる事
比叡山延暦寺に稚児がいた。僧たちがある宵「牡丹餅を作ろう」といったのを、期待して聞いていた。
しかし、作りあがるのを待って寝ないのもどうかと部屋の片隅で寝たふりをしていた。
牡丹餅を作り上げた僧が起こしに来たが、一度で返事すると待っていたと思われると狸寝入りをしていた。すると「稚児は寝てしまったので起こさないように」と別の僧がいったので、起こしてもらえなくなり、僧たちが牡丹餅を食べている音を聞いて、こらえきれずに「はい」と返事をしたら、(稚児の狸寝入りを知っていた)僧たちは笑い続けた。


宇治拾遺物語1-13 田舎(ゐなか)の児(ちご)、桜の散るを見て泣く事
比叡山延暦寺に田舎出身の稚児がいた。桜が風に激しく吹かれているのを見て泣くので、僧が「桜は散るもので嘆くものではない」と言うと、「桜が散るのはどうでもいい。実家の父が育てている麦の花がこの風で散って実がつかないか心配なのです」と答えるではないか。
僧はがっかりしてしまった。


宇治拾遺物語5-9 御室戸僧正(みむろどのそうじやう)の事、一乗寺僧正(いちじやうじのそうじやう)の事
(前略)
一乗寺僧正は呪師の小院という童を寵愛していた。あまりに溺愛しすぎて、昼夜離れず傍にいてほしいと、小院が拒むのを、最終的に法師にしてしまう。
後日、小院に僧侶になる前の服装を無理やり着せて、どうして出家させたのだろうと僧正が泣きだす。
小院は、「だから今しばらく待ってと申し上げました」と答えた。
(後略)

 

■醒睡笑巻之六 児(ちご)の噂
御馳走の中にみょうががあった。ある人が稚児に「昔から物忘れをする草と言って食べなかった」といわれると、稚児は「私は食べて空腹を忘れます」と答えた。

 

■醒睡笑巻之六 603
坊主が餅を一つ持ってきて、それを二つに割って「洒落を言って食べなさい」と、3人の稚児の前に置いた。1人目が「この餅は三日月で片割れがここにいる」と手に取った、2人目が「はやくも月は山陰に隠れるよ」と言ってもう半分とった。坊主は3人目にどういう気持ちか問うと「月が隠れて胸の内は闇のようだ」と答えた。

 

■醒睡笑巻之六 617
僧侶が稚児をかわいがり、豪勢な食事をとらせた。その稚児は、寝ながら苦しいというので、他の稚児が「どう見ても健康そうだし、なんで苦しいのか」と聞くと、「食べ過ぎて身体が熱い」という。聞いた稚児は「うらやましい。そんな病なら持病に持ちたい」といった。

 

■きのふはけふの物語 35
三井寺の和尚が雨降る暇な日、「二度物思う」という題で、和歌を作れと稚児にいった。
年上の稚児は「春は花秋はもみぢを散らさぢと としに二たび物思ふなり(春の桜、秋の紅葉を共に散らしたくない。年に二度悲しく思うのである)」と詠み、年下の稚児は「朝めしと又夕食にはづれじと 日々に二たび物こそおもへ(朝飯とまた夕飯に食いはぐれないよう、毎日二度も思ってしまう)」と詠んだ。

 

■きのふはけふの物語 57
年下の稚児が願うには「餅やまんじゅうに種があったらいいなぁ」と。年上の稚児は「餅もまんじゅうも種がないから御馳走として重宝されるのだ。種が何の役に立つのか」と返した。すると年下の稚児は「それは他人の意見だ。もし種があったらそれを植えて、大きくなった木の下で花見をして遊びたい」といった。

■きのふはけふの物語 70
年上の稚児と年下の稚児が富士の山に雪があるのを見て、年上が言うには「どうだ、これほどの飯を食べきることができるか」といったところ、年下の稚児は「どうだろう、とろろ汁(食欲増進のために食べられた)があるなら挑戦してみたい」と答えた。

 

■男色江戸小咄群録9話「欲のはった男色」
稚児が寺の長老和尚と寝た後、長老の前でさかんにため息をつくので、長老が「どうした」と聞くと、「恥ずかしい夢を見た」と答える。小袖3枚と餅沢山とを無理にすすめられて、固く固辞しているところで目が覚めたという。実はこれは稚児の長老へのお願い事だったが、長老は軽く(話を?)そらした。

 

■男色江戸小咄群録10話「にやけ」
稚児が実家で長逗留していると、寺から使いが来て贈り物と手紙が来た。手紙には「にやけ(稚児の尻)がなくて不便だ」と書いてあり稚児が機嫌を損ねたので、母が「にやけ」とは何かと稚児に聞くと「酒の事です」とごまかした。母は稚児の言葉を信じ、使いの者に酒を出すと使いの者は下戸で、「酒より酒の肴がほしいです」と答えた。

 

■男色江戸小咄群録25話「稚児の小穴」
行儀見習いと学習で、幸菊という一人息子を寺にあげた両親が法師のもとへ参上した。寺の者が幸菊を「小穴(しょうけつ)」と呼ぶのを聞いて、両親は不思議がり、幸菊に聞くと「この寺で下戸の別名の事です」と答える。両親はそれを信じた。
再び幸菊の両親が寺に参上したとき、酒の接待を受け、幸菊の母は物知り顔で「私は下戸で、子の幸菊は広穴なので、酒は幸菊にすすめてください」といったとか。
 

 

【参考・引用文献】

「蹇驢嘶餘」『群書類従 第28輯 雑部』(続群書類従完成会/塙保己一編纂) 1979

「右記」『群書類従 第24輯 釈家部』(続群書類従完成会/塙保己一編纂) 1980

「日本仏教における僧と稚児の男色」平松隆円(日本研究 34, 89-130, 2007-03)

「中絵寺院の童と児」土谷恵(史学雑誌101―12)

「児絵について」『鎌倉時代肖像画』(森暢/みすず書房)1971

「稚児・若衆」『國文學―解釈と教材の研究―728号』(學燈社)2005―10

宇治拾遺物語|原文・現代語訳・解説・朗読サイトより」

https://roudokus.com/Uji/index.html

『醒睡笑 全訳註』宮尾興男訳注 講談社学術文庫 2014

『きのうはけふの物語』宮尾興男訳注 講談社学術文庫 2016

『日本における男色の研究』平塚良宣/人間の科学社 1987

『絵巻物による日本常民生活絵引5巻』澁澤敬三編 角川書店 1968