メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林④」『霊肉を凝視めて』より 


 障子の外から女同志の話聲がきこえた。哲二がねがへりを打ちながらきいてると 何でも、本家から女がきて、おたつと朝のお膳立てについて何かしやべつてるらしい。
 哲二は、酒のほとぼりであつくなつてる身内から、おさへ切れないやうな力が むくむくと 湧き起るのを感じた。自分自身の力のやり揚に困つて、明るい障子の骨をかぞへたりしながら、哲二はじつと眼をとぢた。と今まであさの靑い障子 の映つてゐた眼には。薄紅い幕が張りつめられて、そのなかからおたつの云ふに云はれないほどいゝ眼が、じつと見すえてゐる。で哲二は電氣でもかけられたやうに、ぐつと夜具の襟を抱きしめ、眼を閉ぢたまゝ夢中になつてもだえ狂つた。
 ぎちぎちッと襖がきしると 古唐紙の閒から、本物のおたつが 入つてきた。
「もう起きなさるの?   早いから、ゆつくり おやすみなさいよ。」
 おたのつ聲は、美しくひゞいた。哲二は何心ないふうをしながら、眼を低い屋根裡の方へ外らしてると、

「おとッつァんも本家からもう歸つてきませうよ。今本家から娘がきてね、いろいろと御馳走をもつてくるさうですよ。』
 美しいおたつの眼を、夜具のなかゝら平氣で見てゐることはできなかつた。で 、そろりと夜具を被つた。が、夜具のなかゝらは耳を立てるやうにした。女の靜かな息使ひや、疊から耳に傳はる輕い跫音を感じた。哲二が夜具から顏をだすと、女は枕許にたつてこつちを見てゐたのであつた。椿油や白粉に交つた女の胸のほつかりとするやうないゝ匂が、彼の鼻を打つた。
「あなた!?………」
 おたつは、うるんだやうな甘つたるい聲で初めてかう呼びかけた。
「さうきまり惡るがらなくてもいゝでせう。まるで赤ちゃんなのねえ。昨夜は面白かつたよ。私、あなたのやうな不思議な人初めてなのよ。おとッつァんも物好きは物好さねえ………あの毛だらけな腕に抱かれたのをおほえてゐて? 犬の仔見たいに、音をさせて顏ぢうをなめ合つたりしたんだよ。抱かれてねたのも知つてゐる?」 
 哲二は きまりのわろげな顏をして、
「ちつとも知らなかつた。あんまり醉つ拂つちまつて。」かうは云つたが哲二の顏はさつと赤くなつた。
「おとツつアんも、あなたが本當に可愛いんですね。何のことやらさつばり解らないわよ。男同志でさ。それもあんなお爺さんとこんな赤ちゃんとさあ。」おたつは、しなやかな手で、彼の枕の端をばた/\とたゝいた。哲二は寢ざめに見た二人の樣子を想ひ浮べながら、
「昨夜は、おとツつアんもあんたも、人をねせこかしといて………隨分酷いねえ………」
 あとはどうしても云はれなかつた。で子供らしい話に移つた。
「おとツつアん、いくつなの」
おたつは凹みのよる手の甲の指もとをみせながら、
「さうね私と三十ちがいだからかうと、六十二なのさ。」
 四十位から上の人にはさう云ふことはないと思つてゐたのに、哲二は今更のやうに眼を瞠つて驚いた。それに、おたつだって自分よりも七つも年上と思ふと、全身がちゞこまるやうな氣がした。
「あなたよ、何をさうたまげてるのさ? 齡はいくつになつたつて、このみちばかりは別なのよ。氣持は若い時と變らないものよ。男と云ふものは大低さうしたものね。あなただつて年を取ると、ぐつと若いのが慾しくなるから今にごらんなさい。あなたはおいくつ?」
 哲二は、きたなと思つた。女に向つて自分の年を云ふのは恥かしかつた。年したゞと白狀するのは辛らかつた。自分の男と云ふものにきずでもつくやうに思はれた。
「五十六。」きいておたつはからはずみな聲をあげた。
「御屯談でせう! その半分位さ。丁度私の弟位なもんさ。」
 おたつは、胸をだくやうにしながら、哲二の枕許にすつとかゞんだ。いくらか鼻聲になつて。
「若くつていゝわねぇ。おとッつアんの可愛い赤ちゃん! ちよつとおゝてをおかしなさいよ。ね! いでせう。」
 哲二は、胸をどき/\させながら、女の顏を見てゐると、おたつはにつこりと笑ひながら、白い冷たい手を、夜具の襟元から突ッこんで、火のやうにほてり切つてゐる彼の手をぎゆつ握つてしまつた……

 倉吉は、人の好ささうな顏をにこ/\させながら、鍋や大皿などを擔つた若者をつれて本家の方からやつてきた。その前に、哲二はそつぬけだして、岸に降り、靜かな朝の風に吹かれてゐた。
「あゝ、しまつた! ………思ひがけなく………なぜあの時に、女を衝き退けなかつたんだらう? 考へてみれば、可愛いゝ爺さんに誠にすまないことをした。」
 かう胸のうちで繰り返しながら、女の紅や白粉の香移りのしてゐるやうに思はれる體ぢうを、海の水に浸して洗つた。蹈んでる足の下から、淸冷な氣がからだぢうに沁み渡つた。まだ肌寒い海の水は、哲二のけがれた靈魂を洗ひ淸めるかのやうに、莊嚴な響を立てゝ押し寄せてきたが、彼の鼻についてゐるおたつの匂を洗ひ流してしまふことはできなかつた。哲二は、波に搖られながら、高く昇つた朝日に向つて手を合せてゐた。
 からだぢうを拭つてしまふと、溫袍を引ツかけて水際にかゞみながら、碧の海を見渡した。倉吉からもおたつからも、自分の體はおもちやにされたのだなと思ふと、哲二は云ふに云はれないさびしさを感じた。

(誤字脱字を見かけられたらご指摘いただけるとありがたいです)

 

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