メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

季刊男色 その後の綿貫六助

■まえがき

私が綿貫六助について調べた、2021年。次の年に革命がおこる。綿貫の小説が収録された文庫が出る、国立国会図書館デジタルが全文検索対応となり、綿貫の資料にあたる率が上がった。さらに2023年に入り、1970年代のゲイ雑誌で綿貫の特集があったなど、綿貫六助チャレンジの終わりが見えないのですが、今のところわかっている資料について、まとめたのがこの「季刊男色 その後の綿貫六助」です。楽しんでいただけたら幸いです。

メガネ


■除隊の理由

軍人になった綿貫は、梅津美治郎・永持源治・多田礼吉等の将軍と同期の陸士第十五期であり、そのまま軍人をしていればそれなりの地位にいただろうと推測されるが、彼は中隊長にまでなった軍を馘首になってしまう。
なぜ馘首になったのか、その原因となった不祥事にたどり着けなくて首をかしげる中、やっと出会ったのが、田嶋一郎氏が綿貫に関するコラムである。詳しいので、氏の「綿貫六助についてのメモ(六)」より引用する。

彼は自分でも軍隊にむいていないと思っており、他の将校たちからも変人と観られていた。
彼が士官候補生時、泥酔し森川少佐を馬にして少佐の臀を打って、他の見習士官たちからつかみ出された、ということもあった。
また神聖な検閲場で、師団長をやりこめるということもあった。 連隊旗手の時、老連隊長と契りを結び、連隊長が美少年従卒を可愛がり、彼を袖にしたことから嫉妬、ピストルで連隊長を射殺しようとした。 あるいは、軍旗祭で連隊長と口論、連隊長をなぐりつけた。
このような数々の行為や同性愛も原因となったのであろう。綿貫は大正三年、陸軍によって馘首されたのである。

やった側もやられた側も記録に残るといろいろまずいタイプの不祥事が浮かび上がってしまった。
田嶋氏がそうしてここまで深く知っているのか、あたった文献を知りたいところではある。
しかし、軍を馘首になったおかげで、数々の男色小説が読めたのだから、やめてくれてよかったと一読者として思う。 


■詩の中に綿貫六助が出てきた話

ゲイ雑誌「アドン」1979年6月増刊号に綿貫六助の「丘の上の家」「静かなる復讐」の掲載があるとのこと(花笠海月様、情報ありがとうございます)、
作品掲載だけでなく、綿貫六助についての説明もあり大宅壮一氏と木村毅氏が綿貫に言及していたらしく、それは新資料ではないかと鼻息荒くして、国立国会図書館デジタルで該当記事を探していたのだが、なぜかみつかったのが綿貫六助の名前が出てくる詩。
詩なのだ、詩。でもその詩も新資料だった。
引用する。

めし屋の客
 
(前略)

めし屋にいつも変な客がいた
大名縞の銘仙の褞袍に
黒メルトンの二重まわしを羽織り
懐ろになにやら本を突込んだ
五十がらみの貧相なおやじが
並酒の二合徳利を傾けているのだ
酔えば
菜種の花の活け花をちぎって食べたりする
お照坊と二人で介抱すると
きまって酣叫した
   《つまらん
    字を書くことはつまらん
    小説はつまらん》
その人の名は綿貫六助といった
帝国陸軍の将校を辞して
中年から文学に志したという
流行らぬ文士らしかった
そういえば後ろ姿に孤高の影があった

(後略)
緒方昇『天下 詩集』日本未来派の会 1965

え、50歳代の綿貫六助の記録! びっくり。
どてらの上に、インバネスコートの短いやつ羽織って、お花食べたり、酔って寝ちゃう姿を当時19歳の自由労働者の緒方昇に書かれているの、ちょっとおもしろい。 


■おのちゅうこうが見た綿貫六助

綿貫と親交があった群馬の児童文学作家、詩人のおのちゅうこうが書いた『わが群馬の文学者たち』に、「放浪の作家―綿貫六助」という章がある。綿貫がどういう人物であったか知ることができる貴重な証言である。内容を少し見ていこう。
おのと綿貫は、昭和4年の春、利根郡の川場温泉で出会う。

軍人作家というイメージは、綿貫六助にとってはプラスの面もありマイナスの面もあった。 本人は、軍人作家というイメージを嫌っていた。だから、平常はつとめて庶民的に、諧謔的に、脱線的な生方をした。酒を好み、酔って道ばたに寝ころんでいたり、誰彼なしに親しくつきあい、農民であれ、キコリであれ、芸人でも相手さえ純心ならおかまいなし、兄弟さながらに飲んだり抱擁しりした。いつも長髪で、黒の眼鏡をかけて、和服で下駄ばきで、ひょうひょうと歩きまわり、歓迎してくれる相手の、誰の家にでも宿をもとめた。金はあればあるだけふりまき、無くなれば借金は平気で、旅館の宿泊代なども、いやでもたまり、払いきれず、質屋へいくことは日常茶飯事、意に介さなかった。だから金鵄勲章などは、とうの昔に、どこか借金のていとうになっていたのであった。

おのは綿貫の家を尋ねて宿泊したこともたびたびあった。生活はひどく困窮していて、左翼思想の長男と綿貫はよくケンカしていた。次男は歌舞伎俳優の弟子になったこともあった。
昭和15年ごろ、奥さんが亡くなり孤独になった綿貫は、文壇にも忘れ去られ、さびしいものだった。昭和21年12月19日没と判明するが、どこでどのように死んだのか不明で、遺族もわかっていない。 


■ぶれない生き方

大宅壮一氏の「男色談義」に、綿貫のエピソードがしれっと紛れ込んでいたので紹介する。

小田急が開通してまもないころ、 その沿線に七澤温泉といふ鑛泉があつて、そこへ文士たちがよく仕事に行った。 今はどうか知らぬが、當時は小さな宿屋が一軒あるきりで、素朴で靜かで、それにひどく安上りなのでみんなよく行つたものだ。そのころ陸軍後備大尉の肩書をもつ綿貫六助といふ作家がゐて、かれもこの宿に長く滞在してゐた。そのうちにそこの番頭、といつても、すでに六十歳を越した老人だが、綿貫がこれに惚れて夜這ひをした。 それで、たいへんな騒ぎが起こつたといふ話を女中からきいた。

小田急開通の年を、仮に1923年として綿貫40歳半ばの頃の出来事であろうか。六十才を越した老番頭に夜這いをかけるあたり、「変態・資料」で発表した4小説のままで、まったくぶれていない。すがすがしいほど信頼できる(なんの)。どこか信頼と安心が持てる綿貫エピソードとして記しておく(しかしこの男色談義、いろんな男色エピソード収集していて、何かしらの執念すら感じる)。 


■参考文献
「綿貫六助についてのメモ(六)」田嶋一郎 『風雷』199号 1994
アドン」コバルト社 1979年6月増刊号
緒方昇『天下 詩集』日本未来派の会 1965
おのちゅうこう『わが群馬の文学者たち』(上毛新聞社) 1979
大宅壮一「男色談義」「小説新潮」7(8) 1953

 
■綿貫六助ニュース

今まで、資料複写でしか読めなかった綿貫作品が2022年末からAmazonの電子書籍Kindleで読むことができるようになりました!
すごい時代が来たものです。「季刊男色 綿貫六助」で紹介した「小松林」、「丘の上の家」、「静かなる復讐」、「黝い花」が今のところ読めます(2023年6月現在)。風々齋文庫様ありがとうございます!