メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。

児灌頂の研究 犯と聖性 感想のようなもの

稚児と稚児灌頂について調べ始めた時知った、『児灌頂の研究 犯と聖性』でいろいろ目からうろこだったので、感想のようなもの。

 

児灌頂の研究 犯と聖性

児灌頂の研究 犯と聖性

  • 作者:辻 晶子
  • 発売日: 2021/03/12
  • メディア: 単行本
 

 稚児灌頂とは、天台宗で行われていた儀式で、稚児と呼ばれる少年を「稚児灌頂」という儀式を通じて聖別し(仏の化身とみなし)、灌頂を受けた稚児は、僧侶の性的行為の対象とするものだそうだ。
しかして現代では、pixiv百科事典を引用するが、「日本の坊主が性欲を慰めるため美少年の稚児と交わるいい逃れの為の儀式」といった認識が主流であり、そもそも稚児灌頂の儀式が本来持っていた聖性が見失われている。

この稚児灌頂の儀式を世に知らしめたのは、今東光氏の『稚児』という小説。

そのなかで引用された、『弘児聖教秘伝私』が儀式を伝えるキーとなるが、長らく秘本となっていたため、原典が解読されず、今東光氏の『稚児』の内容を、写したものを稲垣足穂三島由紀夫が広め、曲解されていったようだ。

本書では、『弘児聖教秘伝私』を中心に、いくつかの類似経典を挙げ、児灌頂の儀式の聖性を再確認し、また同時に、稚児に対する「犯」の概念が儀式時には見当たらず、「犯」の思想を持って「児を犯す」という性的儀礼といった解釈は、儀式の本来の姿に則さないのではないかと指摘、稚児灌頂の目指すところは性の実践ではなく、観音の顕現であるという。
灌頂の儀式と、その夜に行われた寝所の作法を別のもの解釈すべきなのだろう。

決して儀式が「日本の坊主が性欲を慰めるため美少年の稚児と交わるいい逃れの為の儀式」ではなかったことを伝えている。

個人的に稚児灌頂の儀式のやりようが美しいなと思ったので、一部引用しますp.43

 

 本尊念誦として観音の真言を千回のうち五百回を誦したところで、教授(教授阿闍梨。受者を場内に導き、作法進退を教える者)が、大口袴(下袴)のみを着した児を道場に引き入れる(「行法ノ正念誦ノ時 本尊ノ念誦千反ノ内ニ五百反過テ有ン時 教授受者児ハ大口計ニテ引入可為」)。阿闍梨は無所不至印を結び念誦を行っているが、受者引入の時には本三昧耶印を結ぶ(「印相ハ無所不至印ニテ可居 受者ノ児引入時ノ印明本三昧耶印明也」)。
入堂した児は、座具を広げて三礼する(「受者児座具ヲノヘテ三礼ヲ可為」)。児は、手や身に香を塗ってけがれを除き、五大願を唱え、護身法として入仏三昧耶などの印を結び、真言を唱える(「先塗香サセテ五大願 其後入仏三昧耶印明七反 法界生印明三反転法輪印明三反次無所不至印明三反」)。
阿闍梨は児に楊枝を与え、誓水を飲ませる(「受者児ニ阿闍梨楊枝ヲ出セ其後誓水可呑ス」)。筆に鉄漿水を含ませ、児の歯に三度つける。その後は、教授師に従って児自身がつける(「フテヲ取テカネニソメテ三度付サセハ教授従テ其後ハ付サスヘシ」)。
児は、教授師に口を拭かれ、眉を描き化粧を施され、装束と天冠を着けて児姿となる(「其後教授口ヲノコワセケシャウラセサセテ眉ヲ取テ装束ヲ可服 又天冠ヲモ着サセ」)。

また本文だけでなく、巻末の膨大な資料は、稚児灌頂の資料としてこの上なく有益であり、見ているだけで圧倒される。

 

専門書のため、高価だが、稚児について知る最新の貴重な資料なので、その分野に興味がある方は買うことをお勧めする

 

ちなみに、いま、稚児物語をいろいろ読み進めているが、稚児たちは僧侶なら誰でも彼でも相手をするかといえばそうではなく、きちんと和歌の交わし合い、互いの気持ちを確認しながらも、自身が灌頂を受けた僧侶に対する義理(だろうと思う、たぶん)から相手を振ったりすることもあるので、誰もが稚児の恩寵を受けたとはどうも考えにくいなというのが個人的感想です