もういくつ寝ると、文学フリマ。
ペーパーをつくる作業などに追われております。
さて、文学フリマ東京40の新刊「青い綴字・青い遠景」についてです。

作者の泉啓介氏は、会員制ゲイ雑誌ADONISの投稿作家で、ADONIS誌上でも人気が高く、二度の読者投票で二冠を勝ち取る、実力派作家です。
これからをたくさん期待されていたと思われますが、昭和34年6月に療養所で没しています。
小説・コラム・戯曲と作品の幅は広く、また、彷書月刊2006年3月号の堂本正樹氏のインタビューで、菱川紳とならんでオープンになってほしい作家として挙げられています。
今回は、泉氏のデビュー作「青い綴字」と、二作目「青い遠景」を文字起こししました。
異国の青年とホテルのボーイがひと時溺れるような恋をする「青い綴字」、美青年の、なかなか捉えられない愛を求める「青い遠景」。試し読みを以下に掲載します。
購入のご参考になさってください。
青い綴字
先刻から鳶色の視線が遠慮がちだが、執拗に片頬にまつはりついてゐるのを私は知つてゐた。私はその日の出欠の報告書を書き、それに自分の署名をしをはると、つと顔をあげてその方を見た。私の視線に捉へられた鳶色の目がふつとまたたくと、夜の挨拶を低い声で言つた。私はこれに職業的な冷静さで応へると、ひとりの給仕女を呼んで彼女たちの今夜の休憩表をつくりはじめた。休憩表を女に渡すと、先程の報告書を事務所に提出するために私はバアのカウンターを出た。鳶色の目は既にゐなかつた。冬の昏れはやい外から帰へつてくる人達が押す廻転扉に灯りが映つてゐて一緒に廻つてゐる。
ひと月前、クリスマスの準備にホテルの中がざわめいてゐた時のことであつた。八階建の、室数が六百もあるこのホテルには駐留軍の佐官級、及び同じ級(クラス)の一般人が宿泊してゐた。そしてその殆どが半年から一年以上もの滞在で、ホテルといふよりアパートの感がしなくもない。その滞在客たちがつくつてゐるクラブでは贅沢にクリスマスの飾りをはじめてゐた。私は食堂のボーイたちにその指図をしながら働いてゐた。クラブの役員であるひとりの老婦人が私の傍にきて言つた。
「ねえ、ケイスケ、風船の色のとり合せがよくない。あなた。さげてみて――」成程、さう言はれてみると、ボーイが無造作にとりつけてゆく風船は一つ色がかたまつたりしてゐた。代つて上つた私は不安定な小さな梯子に恐れをなして誰にともなく言つた。
「誰かおさへててくんないか。」
仕事が一区切りつくと、私は私の足首を掴んでくれてゐる手にきづいた。見下すと、亜麻色の髪をしたひとりの青年が微笑して見上げてゐた。客だとわかると私は恐縮して言つた。
「ああ、すみません、もういいのです。ありがとう。」降りかけた私に彼は手を出した。私は彼の肩に手を置いた。彼は私の腋下を支へた。その時、私たちは諒解しあつた。お互ひに触れあつたのは数秒の間にすぎない。それにもかかはらず私たちは同じ種族であることを識つてしまつたのである。まはりには沢山な人が仕事を続けてゐた。恐らく、その中の誰ひとりとして気づかなかつたであらう、このふたりの触れあひは神秘的ですらあるが、これは現実――確かに存在した行為であつた。
このことがあつて以来、あの鳶色の目が私を追ひはじめたのである。
〈私はかう書いてきて、少しの誇張も嘘も交つてないことを自分の為に嬉しいと思ふ。〉
ある夜おそく、もう最後の注文(ラスト・オーダー)を聴かなくてはならない時刻に彼が現れた。何処かのパーテイの戻りででもあるのか、いつもより動作が軽く頰は艶(つや)やかであつた。その時、私はカウンターの中で雑誌「エスクワイヤー」をめくつてゐた。彼は私を認めると近づいて来た。挨拶を交すと、彼は私の手元をのぞきこんで何を読んでるのかと聴き、そして言つた。
「本でも雑誌でも読みたきやあ、ありますよ。部屋にとりにきませんか。」
私はそれを幾度も聞かされた言葉のやうに聴いた。〈私はその言葉を待つてゐたのだ。〉私はひそかに心の中で、彼にやさしく誘われることを想像してゐた為に、その言葉が彼の口から出たとき、それを既に幾度も聴かされたやうな気がしたものと思はれる。私はそれに応えて言つた。
「ええ、ありがとう。どうぞみせて下さい。」
「何時でもかまいませんよ。――今夜、とりに来ますか。」
「今夜はまだ仕事がありますし、遅いですから………明日にでも……」
「明日ね。」彼はにつこりした。
「明日、さう、明晩九時に私の仕事は終ります。そのあとで――よろしいですか。」心の隅でまだ躊躇するものがあるのに、それに構ひなく私の口は動いてさう約束をしてしまつた。その瞬間から翌日へかけて、私は説明しがたい重苦しい感情と苛立たしさに捉へられて落着かなかつた。
私が彼の部屋に行くことで他人の思惑を気にすることはなかつた。(女子従業員は絶対に客の部屋へ行くことは許されなかつたが、男の場合は許された。) 私はその日、九時までひたすら仕事をした。やることがなくなると掃除をする若者たちの手伝ひまでしてワツクスで手を汚したりした。気を紛らす為にである。夜が濃くなつていつた。私の勤務時間の終る九時になる。私は風呂へ入ると、一先づ自分の部屋へ帰へつた。職場でのタキシードをぬぐと、私は一番気に入つた服を着やうと思つた。象牙色のうすい毛(ウール)のシヤツ、タンのズボンを穿いて、茶の杉綾の上着を着た。
私は鏡に映つた自分を若くて美しいと思つた。二十三という年齢のはりを持つた頬の線、黒く太い眉。私は自分を美貌などといつてゐるのではない。私は鏡の中の「男」に青春を見出したのである。私はエレベーターを利用しなかつた。もしも私より美しい少年が運転をしてゐるのに乗りあはせたら彼の部屋に行く勇気がなくなりさうだつたからである。私は三階まで歩いて上つた。石の階段を踏む私の靴音が私をはげましてくれるやうであつた。
彼の部屋の扉をたたくと、弾んだ声がそれに答へた。入つて閉めた扉の音をきつかけにして、
総てが始つた。
「仕事は終りましたか。」部屋着をきてくつろいでゐた彼が訊ねた。
「ええ、終つたんです。」彼は私に椅子をすすめた。小さな卓の上には氷やコカコラが置いてあつた。
「何か飲みますか。」私が酒は飲めないのだと断ると、彼は「おやバーにゐてね」と肩をすくめてみせた。私たちは打解けつつあつた。彼は私に茶色の上着がよく似合ふ、朱の細い格子がなかなかいいと言つた。私は棚の上に置かれた、益子(ましこ)の皿を目に止め、それが売られてある並木通りの工芸店のことを話題にした。〈私たちの間にこんな話は不要な筈である。〉話がちよつと途切れた時、私は椅子を離れて本の積まれた机の前に立つた。そして、その中から厚い一冊の本を取り上げた。ギリシヤ彫刻の写真集である。――ふたりはソフアに並んで掛けると、その本を開いた。大理石の青年裸像も、テラコツタのエロスも、その殆どが既知の美しい彫刻であつた。
ふたりの意見はことごとく一致してゐた。私たちの会話は定められた芝居の台詞のそれのやうにすすめられた。彼の言葉と私の言葉がたとへ入れかはつたとしても、少しも不自然ではない程であつた。いつか彼の手が私の肩を抱いてゐた。私はいつか彼の肩へよりかかつてゐた。そして、その彼の指にこめられた力を、私の肩の肉が意識した時、私の上体は彼の胸の前へ傾いた。膝の上の本がすべり落ちて重い響きをたてた。その音が私の理性を翔びたたせた。私の顔を翳げらせて近寄つた彼の唇が私の唇を覆つた。
――私の体は大そう軽く横のベツドに寝かされた。着てゐる服を、そして靴を脱がされるのを、遠い潮騒の音のやうに聞いた。くちづけされたときからの動悸が私の体を震えさせた。彼は私の膚が現れるたびに、そこへ唇を押しあてた。裸にされた私は、私のものが興奮してゐるのが羞かしく、つつ伏して言つた。
「灯りを消して――」
青い遠景
天性は追へども駈けもどるといふのは誰の言葉であつたらうか。その如く幾度追ひ払つたつもりでもいつか自分に返へつて来てゐる〝天性〟を見出すと、やはりこの天性とは生涯共に生きてゆくべきなのであらうと不破泰彦は二十八歳の今になつて思ひ当つてゐた。それならば実際にどうすればよいかといふことはまるで見当がつかないのである。行手は深い霧につつまれたように莫としてゐて、不安のあまり古い記憶を灯してみるのだが十年も前のそれは現在何の役にもたなかつた。
夜、八時を過ぎて省線がひととき大さう空くことがある。夕方の混雑のあと電車はまるで疲れを癒すとでもいつた様子で扉の開閉も静かにおだやかとなる。そんな時刻、外廻りの山手線も新宿で人を降すと嘘のやうに空いたまま走り出した。花すぎの埃りつぽい四月下旬だが夜はどうかすると膚さむい。泰彦はよりかかつた硝子扉にそのつめたさを感じてゐた。ホームの灯がひとしきり外を流れると黝い夜が硝子扉を塗りつぶし車内の光景をそれに映した。電車が速力を増して、映像をはつきりきせた。それはハンドバッグをしつかりと膝の上につかんだ大島の着物の中年女、その横すこし離れてオフィスガールらしい二人づれ、夕刊をひろげてゐる肥つた男等である。次の駅近く電車が速力を落しはじめると肥つた男は夕刊をたたんだ。とそれまで夕刊の影に隠されてゐた一つの顔が忽然と現れて映像の中に加はつた。それは美しい青年の顔であつた。夜の玻璃の中でそれは灯(とも)つてゐる。その顔をまじまじと眺めながら泰彦の心が美しいと呟くと、感情がふつと揺れた。彼はその揺れた感情の詮索をするゆとりもなく硝子扉に額をつけて眼を凝らした。夜が映した美しい顔、その間接的であることが泰彦を大胆にした。しかしこのこととても彼にとつてはささやかな愛(かな)しい愉しみで終るのである。行づりの青年に何を期待しやう――。
だから高田馬場で降りて陸橋の方へ歩きだした泰彦を呼びとめたのがその青年であつたことには、正直のところ愕いた。
「何か御用?」
「不破さんもここでお降りなんですね。」青年のかたちのいい薄い唇から洩れる声は思ひがけなく重く翳があつた。
「うん、S線に又乗るんだが、……失礼だけど、どなただつたつけ、想ひ出せないんだ。」
「ああ、ぼく、ベル・ボーイの蒔田です。蒔田郁夫……」
泰彦は想ひ出せないもどかしさに自分が固い表情をしてゐることに気付くと、慌てて笑顔をつくつて言つた。
「ああさうか、ぼく殆ど事務所(オフイス)の中ばかりだからな、でも君さう古かあないだろう。」
「ええ、二タ月ちょつと――」
それにしても呼びとめたといふのは――泰彦は何か起るかもしれぬといふ予感を、(それは多分に願望めいたものであつたが)胸のうちに育てながら言つた。
「何か……それで?」
言つてしまつて彼はなんと不様な聴き方をしたものだと悔んだが、美青年は気にもとめない風でそれに答へた。
「はあ、煙草をお持ちじやありませんか。ぼくきらしちやつて。」
泰彦がさし出した外国煙草を受取りかけて蒔田郁夫は言つた。
「一本でいいんです。駅へでると買へますから。」
「ぼくあ別に持つている。遠慮しないで持つてき給へ。」
「そいじやあお借りします。すみません。」
遠慮なくその場で封を切るうつむいた彼のうなじには中学生じみた稚さが残つてゐた。反対側に電車が入つてきたのをしほに泰彦は別れを告げた。陸橋の階段を上つて行きながら泰彦は、青年の笑顔を背後に感じてゐる自分に『彼は煙草が欲しかつただけなんだ。それ以上のことは何もあらう筈がない』とひそかに言ひ聴かせた。
その夜、浅いねむりの中で泰彦は夢を見た。
深い夜を貫ぬく白い長いプラットホームがあつた。人々は黙然と泰彦の歩みに逆らつて流れるように歩いて行つた。彼が索めてゐるのは遠くで自分を呼んでゐる声である。それは蒔田郁夫のあの重い声であつた。いつかホームに人の流れが絶えてゐた。泰彦ひとりを置いたホームは何間かおきに檸檬(れもん)色の灯をともして長い、ながい。光の輪のなかに青い背広の美青年郁夫がゐた。泰彦が近寄らうとすると彼は闇に消えむかふの灯の下に佇つのだ。泰彦が立止ると郁夫も動かない。白皙の額に二筋三すじ髪が垂れて、深山(みやま)の湖のやうな瞳が泰彦を観てゐる。唇が静かに漣の如く動いて泰彦の名を呼ぶ、三たびよたび……。泰彦は彼へむかつて殆ど走りよつた。郁夫は遠ざかる。追ふ、遠ざかる。ホームの涯には墨空と海があつた。郁夫と星空と海とがひとつに溶けた。ホームの尖端で泰彦は彼を探した。きらめく星屑の中はひときは美しい大きな星があつた。見極めるとそれは郁夫の瞳で夜空の遠い星にかこまれて泰彦へひかりを投げてゐた。誘はれるように足を動かした泰彦はホームから下の海へ転落した。
――夜の奈落の暗さの中に身を起した泰彦は夢を反芻してゐた。自分では何気なく通り過ぎるつもりの、郁夫との出会ひが、心の中でこんな位置を占めてゐることを自分に認めないわけには行かなかつた。すでに泰彦は郁夫を恋してゐた。郁夫を、といふのはまだ早過ぎるかもしれない。それならば言ひなほさう。郁夫の美貌に、泰彦ははつきり恋ひしてゐたのだ。泰彦は闇の底で「蒔田郁夫――」と声に出して呟いた。
夢の夜から四、五日あと、昼飯をすませた泰彦が事務所(オフイス)でぼんやり煙草をふかしてゐると、タイピストの佐々加奈子がやつてきて、ベル・ボーイが扉の外であなたを呼んでるわと告げた。
「ベルボーイ? 誰? 何だつて。」
泰彦は郁夫を鮮かに想ひ泛べてゐながら加奈子には習慣的な演技の身ぶりでさう言つた。
「あら、あたくしも知らないわ。ただ不破さんてゐらつしやいますかつて、それだけ。きれいな子だわ。」
「ふうん。」
演技を続けながらゆつくり椅子を立つと泰彦は、誰だらうと独り言(ご)ちた。
扉を開けて出ると廊下には昼食時の人の往来が多かつた。すこし離れた壁に寄つてゐた郁夫が泰彦を認めると近づいて挨拶した。
「此の間はどうもありがたうござゐました。遅くなつちやつて。」
郁夫はポケットから煙草をとりだした。あの時と同じ外国煙草である。
「いやなに、――君いいのかい。無理して返へさなくつていいのだよ。」
「いえ、無理じやないんです。」
「さうかい、じやあ――」
泰彦はその煙草を受取つてしまふと、この青年との繋りが絶えそうな気がして何か語る言葉を探した。
「今、君ひまかい。天気がいいんでぼくあそのあたりまで出るつもりだつたんだが……よかつたら一緒しないか。」
一息にこれだけのことを言ふと、泰彦は少年のやうに頬をあからめた。その殆ど唐突な誘ひに郁夫はいぶかしんだような表情で答へた。
「ぼく一時半からエレベエターですが、それまでは休憩時間です。」
「じや、いいだらう。」
泰彦はかつてなかつたやうな強引さでものを言つてる自分に驚きながら、一方では郁夫にひかれてゐる偽らぬ自分の姿が現れはじめたことに小さな喜びを持つた。
喫茶店のフェニックスの鉢植の影から電畜がシャルル・トレネの唄声を流してゐた。そこで二人は珈琲を飲みながら、少しばかり詳しい自己紹介をしあつた。