メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林⑥」『霊肉を凝視めて』より


「だつて、お爺さんをおき放しにして、二人だけで松林のなかへ行くのは、變ぢやないか。此處でかうして、お爺さんの寢顔でも見ながら、飲んでゐる方がいゝなあ!」
 おたつは輿ざめたやうすで、壓しつけられたやうに笑ひだした。
「つまらない事を考へたものねぇ。やつぱりどうしても爭はれない赤ちゃんなのねぇ。こんなほつ朽れ爺の顏を見てゐたつて、何が面白いのよ? それより今のうちにこつそりと行つてきませうよ。どうしたつてこゝぢやだめですよ。それに 、本家へゆく道だから、そのつもりででかけませうよ。何も怪しまれるやうなことは、少しもありやしないのよ」
 おたつは、かう云ひながら、倉吉の顏を凝つと見惚れてゐる哲二をせき立てたり、ゆるく波打つてる倉吉のふくれた腹に寢卷を掛けたり、自分の帯をきりゝとしめ直したりした。それから、ちよつと考へて
「あなた! 支度をして、お道具はみんな持つていらつしゃいよ。その方が郁合がいゝわ。」

で 哲二はおたつの云ふがまゝに、その後に跟いて、松林の方に出掛けた。
同性の愛に浸つて、倉吉のうちに何かを求めて、海に尋ねてきた哲二は、夢にも 倉吉の愛妾などと斯んな係合にならうなどゝ思ひもよらなかつた哲二は、今朝、倉吉がゐない閒の、寢牀からの離れぎわに、女の烈しい抱擁を味はつてからは、會吉の肉體美に魅せられながら、倉吉を愛する情は燃えながら、別な方から押し寄せてくる女の蠱惑に、ぐん/\と引きずられてゆくのであつた。でも、哲二は、可愛がつて抱いてくれるあの無邪氣な、倉吉の心を思ひやりながら、幾度となくたちとまつた。
「何をまご/\してるのね、さつ/\とおあるきなさいよ。おそくなつてしまふわ。」 
 たまらないほど魅力のある眼が、哲二を睨みつけ、引きすり立てた。 
 道から外れて暫らく小松の閒を行くと、女はちよつと立ちどまつた。 
「あなた! この邊がいゝのよ。ちよつと體みませうね。」
しなやかな手つきで、こんもりとした小松の繁みを指すと、今度は哲二が先きになつた。 
「いや、こゝぢやあ。も少し奧の方へはいらうぢやないか。こゝぢやあ……あんまり……何だから…………」

哲二が胸をとぎ/\させながらかう云ふと女は顔を橫にふつた。
「あら、そんなに行くとだめですよ。畑なかへ出てしまふから。でねこゝが一番いゝ所なんですよ。」女は、メリンスの紫紺色の前かけを解いて こぼれ松葉の上に敷き哲二に腰をかけさせ、自分はそのそばにより添ふやうに引ツついて坐り込んだ。
 どこからも見られない小松林の繁みのなかは、妙に哲二の胸を波立たせた。太つた女のにほひ、小松の鼻をつくやうな香氣、こぼれ松葉の匂などが、ぽつかりとする五月の陽に渦卷いて、哲二の胸を押しつけてゐた。おたつは不思議に落ちついてゐた。
「あなたは今までに、あんな風な爺さんを、幾人も知つてゐるの? それとも、うちのおとツつァんがはじめてなの?」
「初めてちうこともないがね。」
「そんならお話しなさいよ。かくさなくツたつていゝでせう。」
 哲二は ちよつと劍のある顏をあかくして話しだした。

「さうだねえ。私が十七の秋初めて陸軍の學校へはいつたその翌年からだつたね。その學校には、鹿兒島出身の給養班長下士がゐてね……私も最初は恐ろしくなつて、陸軍から逃げださうかと思つたが、そのうちに、その道に這入つたとでも云はうかね、今度はこつちで、それがよくなつてしまつてね、一人でねるのや 長靴のなかに固パンが入れてないと淋しく思ふやうになつたもんだよ。」
 哲二は、くん/\と香氣を立て、松の葉をこまかく揉りながらこゝまで話すと、深い溜息を吐いた。
「私は、處女が、いたづら男に誘惑されて 墮落してゆく徑路や氣持が、よく解つたやうな氣がする。初めは、身慄ひするほど忌やでたまらないものが、よくなつてくるのだからね。不思議なもんだねえ。それから私は、男から可愛がられる味をおぼえたんだ。通りすがりにでも、いゝ爺さんなどに逢ふと、胸が躍つたり 顏が赤くなつたりするよ……だが、女もまた格別な味のあるもんだね。」 
「それは、女は別ですともさ、男同志の無恰好とは異いますからね。やつぱり 男と女は、離すことのできないもんでせうね。然しあなたのやうにお爺さんを慕つて、それでどう云ふことをするんですよ。昨夜のやうに、口を吸つたり抱きつたりするだけなの?」

哲二の顏は まつ赤になつた。
「それは云はれないな。そのときの心持でいろ/\なことをするから、一槪には云はれないよ……が、白狀すればね、お前のお爺さんとなら、たゞ顏をみてゐればいゝんだよ。で お爺さんから一所に死なうと云はれゝば、心殘りなく死ねるやうな氣がする。が、あんたとなると、慕しいと云ふよりも 何か斯うそゝられるとでも云はうかね……」
「本當に變りものね、双方とも、思ひもよらない滑稽なものねえ。」 
 おたつはかう云つたが、一人ごとのやうにつけ加へた。
「なにかしてるにちがひない。でもそんな事は、ほんの子供あそびのやうなものね。」
 哲二は、どうしても、倉吉に對するときのやうに、心底から打ち解けることはできなかつた。あけ助な彼でありながら、心をうちあけることはできないので、話も宙ぶらになつて行つた。 
「あんたは こゝへ來る前には、どこにゐたんだえ?」
「あれ、あのこつちからとつ附きのね、八重垣町に勤めてゐたんですの。あんな爺さんの所へ落ちてきようとは夢にも思はなかつた。人間は、どこへ流れてゆくものか解らないものねえ。この先きだつてどうなることやら、心細いはなしだ。」
 哲二も、それをきいて、小松の根がたに簇つくりと咲いてゐる、すみれの花を摘みとつて、指先でくると廻しながら。
「お爺さんと云ふものがあつてみれば、私たちが一所になるわけにも行くまいしな。然しまあ、そんなことは考へない方がいゝよ。無駄なとり越し苦勞だからね。」
 哲二は、かう云つて、おたつの眼を見ないやうにした。話は中心に觸れないやうに、なつた。おたつも、ほつと息を吐いて、
「それもさうなのね。」
 哲二は、發作的に冷靜になつた。
「もうそんな話はよさうよ。私は あんたがあゝ云ふ人の好い、あんたを可愛がる人の所へきたのは、幸福だと思ふ。私が女だつたら、あゝ云ふ立派な體で威勢のいゝ、そしてよく可愛がつてくれる、あゝ云ふ人を撰ぶな。」と、おたつの方から、
「そんな話は もうよしませうよ。つまらない 。」が、やつぱり、おたつは話しつゞけた。
「でも、うちの爺さんは本當に忌やになつてしまふ。お酒でものむと、夜の明けるまで、お汁でもすゝるやうな音をさせて、人の顏を吸ふんだからね。あのづう體で、喰いついたら最後、もう離しませんからね。 ……これも、お金が仇なんですわ。」
 哲二は、羨ましげな顏をして、泌々とおたつの顏を見入つた。身うちからは、むく/\と烈しいものが頭をもちあげてきた。
「私は、お前のやうにお爺さんに可愛がられたいな。まじめに愛してくれる人があれば、どんな人でもいゝ、お前がゐてみれば、だめだからなあ……醉つた氣まぐれの夢のうちだけなんだからね。私を抱いてくれるッたつて。」
 女は、紅のロを尖らして、眼を男の方へむけた。
「あら あんなことを云つて。私よりもあなたの方がお爺さんによつぽど可愛がられてるわ。……男にも似合はない甘えやさんなのねぇ! こんなきつげな顏でも、見かけによらないやさしいものなのね。」
 につこりしながら顏をかしげて、男の肩をほんとたゝいた。
 こまかな松の葉かげは、色濃く二人の上にゆれて、眞晝の陽はこともなげに 、小さい神秘な世界を包む小松林の上に降りそゝいでゐた………
 おんなは、とろりとした夢からさめたやうな眼をして、
「あの渡邊さん、おとツつァんとこへはよらずにね、こゝからすぐにお隊へお歸りなさいよ! ね?」
 哲二は、おぢけたやうな顏をして一も二もなく女の云ふことをきいてふら/\と立ちあがつた。女は弟にでも云ふやうに、海とは反對の方を指して、
「あれ、あすこね、そら、あの山の上に松の桷が見えるでせう。枝のたれ下つてる大きな松がね。あれを目あてに行くと本道にでますからね、あすこからは、大きな道ですから……それぢや今日は、これで別れませうね。でも、またいつくるつもり、この次の土曜は? 此度は私にもお土産をどつさりともつてきなさいよ。ね!」
 かう云つて 哲二の顏を現きこんだが、
「あら まあ!渡邊さん泣いてるの! いやだよ。子供ぢやあるまいし。別れるときには清く別れてさ、また威勢よく來るものよ、ね。いつまでたつてもこの赤ちゃんはねえ! まあ……」 
 男の脊中に手をあてたが、独り合點して、
「おとッつアんには、私がよく云つておくわ……」前垂をしめなほしたり、膝についた松葉を拂ひ落したりしながら、
「あのう、お勤めは大切にね。今日は氣をつけてお帰りなさいよ! 途上で、無暗にひッ掛つたりしないやうにね。それからね、あの……」
 云ひにくさうに袖をロに宛てゝ笑ひながら、
「私んとこのね、それあの、おとッつアんより外の……外の女に浮氣しちやいやよ、ね! いゝかえ! おとッつアんは、あなたのいゝ人でせう。男と云ふものはね、働くときには思ひ切り確かりと働いてさ、遊ぶときには、また威勢よく奇麗にね。方々へ引ツ掛けてはだらしがないから 私んとこのお爺さんだけにきめてね渡邊さん。」女は、かう云つてしまふと、たまらないほどいゝ顔をしてまたにつこりと笑つて見せた。哲二は、女に見られまいとすればするほど、熱い淚が流れ出した。 
遊廓のやうな所にゐた女だとは云ひながら、あまりにさら/\とした淡い素振りが、哲二には恨めしいやうにも思はれた。
 男は、默つて、小松の影に吸ひこまれてゆく女の後姿をじつと見てゐた。女は、一足每に、倉吉の方に近くなつてゆくのに、彼があるき出せば、一步一步に二人から遠ざかつて、忌やな兵營に近づいてゆくのであつた。
 哲二は さびしげな顏をして、うなだれながら、おたつに云はれた小高い岡の小道にでると、道ばたには龍が組みうちでもしてるやうな根髙な 老松があつて、そこからは松の葉ごしに海が見えた。
 哲二は、海の方を見た。小松林に埋れたやうに、林の家のかやぶき屋根が見えた。哲二は、あの老浪夫と一所に暮すおたつがうらやましくなつてきた。おたつと二人でこの海邊に住む老漁夫になつて、小松林に埋れてしまひたかつた。
 年は六十をすぎても若い氣もちで、おたつのやうな美しい女と、この海邊で自由に暮す倉吉に較ベてみると、何と慘めな自分であるだらう! つまらない人閒が、かりに定めた位などを、光でゝもあるように思ったりして、あゝつまらないものだったな、と哲二は沁々と考へた。おゝさうだ、
この軍刀や將校の服などはぬぎすてゝ、いつそう倉吉の家のむこにでもなつて漁夫で一生を自由に送らうかな! かう思ひながらも、哲二は、たちあがつてしぶ /\と、兵營の方に向つてあるきだした。
 海は 眞かうからふりそゝぐ陽をあみて、にこ/\と笑ひながら、限りもない深い波の底から、「をーい」「をーい」と呼んでゐるやうに思はれた。で哲二が眼を瞠つて耳をすますと 倉吉やおたつのしやベる聲がきこえてくるやうな氣がした。
 と、ある坂のまがりめの所で、ま一度ふり返つてみた。なつかしい茅ぶきの小屋は、松の繁みにかくれて、その向うに擴がつてゐる海が、かぎりもないさみしい色を湛えて、やつばり「をーい」「をーい」と、兵營にかへってゆく哲二を 、呼んでゐるやうに思はれた。

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