メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林③」『霊肉を凝視めて』より 


 茶屋の世話やきで疲れたおたつと、船から歸つてきた倉吉が、本家のどさくさしてゐる孫子から離れて、二人でゆつくり骨を休める所が、この林の家なのである。
 それは、小さなかやぶきのまツ四角な平屋であつた。小松の繁つてゐる小高い岡の上にあるので松の葉越しに海がちら/\とみえた。廣い土閒に接した板敷には、藁ねこだが敷きつめられて、上り框の所には、大きな圍爐裏が切つてあつた。官軍騷動か何かの錦繪が、鼠色にぶちた古唐紙を境にして、緣なし疊を敷いた八疊の一閒が、急に箒を入れたらしいその後に、かびくさい臭氣を漾はせてゐた。軒場には、空き樽を埋めた小便所があつて、その臭が座敷まで海の風と一緖に流れこんでゐた。
 古びた飯臺に向かひあつて、倉吉と哲二が座つた。おたつは、茶屋の方から、酒や煮肴などを運んできた女と、爐ばたで何か話してゐたが、その女が歸つてしまふと、自分もあつ燗の德利をもつてきて、二人の閒にすわりこんだ。
 倉吉は、厚つぼつたい唇に肴の小骨などをひッ付けたまゝ、除隊記念か何かの大きな盃であをり立てゝゐた。愛嬌のある皴を、眼尻によせながら、干した盃を哲二に渡し、銀のやうな髭のまばらに生へてるあごで、女にお酌を云ひつけ、澁うちわのやうな掌を頂くやうな格好に哲二の方へさしあけて酒をすゝめるのであつた。
 おたつは、盃の絲尻をちょつと乙につまみ、まるい顏を少しかしげるやうにしながら、しなやかな手首もろとも德利を外がわの方にまわして哲二の盃に注いだ。
 哲二は、二人の盃を引き受け/\心持よく飮んだので、閒もなくべろ/\に醉ツ拂つてしまつた。
 圍爐裏の釣竹に吊さつてる大鍋には、圓切りの靑い魚が、山のやうに塡めこまれて、盬辛い匂を湯氣に渦卷かせて、脂をぎら/\と光らせながら煮えくり返つてゐた。
 おたつが起つて海よりの障子をあけると、黑い海の上には、まつかな半圓の月が、いつの閒にか可なり高く昇つてゐた。月のまわりには、淡紅色のうす雲がかゝてゐた。深夜の月は、數知れぬ波のうねりを貫いた幾條かの金線を流して、きら/\とこまかくふるえてゐた。
「どうだえ中尉さんや! 佳え所だべえ。」
 凝つと見惚れて、何かの音でもきかうとするかのやうに、きゝ耳を立てゝゐる哲二の顏をみると倉吉はかう云つて自慢した。
「中尉さんや、俺らは何ぼお前を待つてたかしんねえだぞ! 今夜はお前がきてくれてよかいだ。それ、ちやツちやツと注いであげせえ、 おたつ! 何う、中尉さんの顏べえ見てるだ?…… 本家から 蒲圍もきたしと ………中尉さん、俺もな本家は枠がよくやつてけるし心配ねえだ。隠居仕亊に海にや乘りだすが大低うちにゐるだ。茶屋の方から、これが、俺の飲み料位はけるしな。したがお前も鎭事勤ぢや 氣がつまらツしやるベな。どんたくにァいつも遊びにきなせえ。おたつと二人で待つてるだツぺちヤや。かうなればお前は俺らの子か弟だツベツちャや。あツはは……あゝさうだ、おたつ、中尉さんを本家の方へも連れてぐベえな。」
 おたつはぼつちりと赤くなつた笑顏をふつた。
「あんなごたすたのなかぢや、渡邊さんの氣保養にやなりませんよ。やツばりこつちの方がいゝんですよ。ね? 渡邊さん!」
 おたつの顏は醉がまはつてくると白粉燒けも、ちよつと曇つたやうな靑みも消えて、生き/\と輝いてきた。その眼は、何とも云はれないほどいゝ魅力を强めてきた。
 女にもかなり関係しないでもなかつたが、おたつからのやうな沁んみりとした魅力を受けるのは哲二にとつてはこれが初めてゞあつた。倉吉に對する不思議な戀心がおたつから受ける身うちのとろけるやうな眞紅な蠱惑に、ぬりつぶされてしまつたやうな感じを哲二は沁々と味はつたのである。
倉吉と哲二の関係を、おたつが索早くのみこんだのは妙に樣ぐつたい感じを哲二に與へた。そしてそれが妙にうれしかつた。
 倉吉は調子づいて躍りだした。その無恰好な毛だらけな足が未來派の畫のやうに亂れて幾本にも見えた。そして叠の波がざわ/\それに織りまざつてゐた。哲二の眼はあぶなげにすわつて、胴から上が留度もなくぐらつき動いた。
 おたつも自慢らしい聲を絞りだして、二上リ新内をうたひだした。その節廻しにも、いゝ聲にもさびしみが流れて、人の世の險しい道をあるく孤獨な女の姿を、思はせすにはおかないやうな味があつた。
 倉吉も大きな手をもてあまして踊をやめて、哲二に引ッつくやうにどしんと大きな尻をおろした。 
 海も月も雲も人も、女のかんがあり、のびがあり、うらがあつて、なだらかに流れ廻る唄聲にうつとりと聽き惚れてゐた。
 哲二は、かなしくなつてきた。自分の慘めな通去の心の繪卷物を眺めてか、光のない暗い未來を想つてか、靑ざめたやうに醉つた顏からは、とめ度もなく熱い 流れ落ちた。倉吉は ぎごちな い腕を哲二の肩にかけて、無暗にゆすぐりながら
「こうれ! なぜ泣くだ?これほど俺が可愛がつてやるだのに。そうれ佳ぇ晚だ、月でも見さつしやれッてば。」
 哲二は、うれしげに淚を光らせながら、食吉の胸に槌つて、その熱い頬に接吻した。哲二の熱い淚が岩のやうな倉吉の胸にかゝつた。
倉吉は、荒い鼻息を吹きかけながら、太い腕で、すらりとした哲二のからだを抱きながら 飮臺のわきにばつたりと橫に倒れた。節くれ立つた腕で、哲二の背中をたゝきながら 鼻に掛つた妙な 聲を出して 子守歌の節らしいのを唸つてゐた。
 哲二は 二十四の中尉だと云ふのに 貪吉の前ではまるで子供のやうだつた。煤けた佛壇のカンテラや、古箪笥の前の吊洋燈の光をぼんやり見詰めたりしながら、頰に老爺のなめらかな熱い舌の觸れるのを感じた。そして赤兒のやうに泣き眠りにぐつすりとねこんでしまつた。……
 哲二は夜なかにぽつかりと眼をさました。暗い燈火にゆれるぼんやりとした意識に、見たことのない室が映つた。ぐつと頭をもちあげる途端に、倉吉の林の家だと云ふことに氣がついた。哲二は二人からはかなり離れた所に一人でねてゐたのであつた。やつぱり一人ぼつちだと云ふやな悲哀が胸にあぶれてきた。
 冷しい海邊の夜ふけの風が、荒壁をとほしてさびしい枕許に通つてきた。
 何だか斯う力ぬけのしたやうな、大きな罪でも犯したやうな、とりとめもない悔恨の情が哲二の胸には浮んでゐた。陸軍大學の候補者にまで選ばれた有爲な靑年將校ともあらうものが、こんな所へこつそりと拔けてきて、泊りこむと云ふことは、申譯もないことのやうに思はれてきた。 
 哲二は がん/\と嗚る頭を枕に押しあてゝ考へ續けた。
 俺は慥かに、老爺を愛してゐる。が何もわるいことをした覺えはない。それでも罪なのかな? 俺は、おたつを戀してゐる。おたつは爺やのものだ。すれば人妻を戀するのだ、これは確かに罪だやめよう。やめよう。一時の心の迷ひから、限りもない暗い所へ落ちて永久に苦痛を受けるのは恐ろしい。やめよう。……がまてよ……どうせ生きてゐれば腹に汚物があるやうに、幾らかでも罪があるにきまつてる。さうだ後々の事よりも、いまが今のことが大切だ。今のたのしみにはかへられない。なにほど生きろ體だとつて。……
 乾き切つてかさ/\になつた唇を、むにや/\させながら、哲二は苦しげにねがへりをうつた。
 佛壇のカンテラが、虹のやうな小さな傘を被つて、暗い室をほんのりと照してゐる。たがの細いまのびのした三升樽が、丁度しきりをでもしたやうに、哲二と彼等の閒に轉つてる。その向うのカンテラの光がとゞくかとゞかない位な所に、女の眞ッ白な襟足と倉吉の節瘤だらけな赤銅色の太い腕が、哲二の眼に映つてきた。……
 で哲二は、自分の五體が、むく/\と踊りあがるやうな氣がした。齒の根ががた/\とふるへた。胸がどき/\して息苦しくなつた。暗い室ぢうが動くやうに思はれた。哲二は、たまらなくなつて夜具を引ッ被つてしまつた。

(誤字脱字ご指摘いただけますと助かります)

 

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