メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林①」『霊肉を凝視めて』より 

この一篇を私の最愛なる
老漁夫の靈前に捧げる。


 哲二は、變人なので、將校仲間からも組外れにされてゐた。
 日曜や祭日には、ほかの將校たちは、上官を訪問したり、倶樂部や集會所あたりで、酒を飲んだり、玉突きなどをしているのであるが、哲二は同瞭などの知らないこつそりとした樂をあてに、衛戌地からかなりに遠い、郊外の方へ出てきたのであつた。
 とある道際の土手に腰をおろして、帽子をとると、五月の明るいかげろうのなかに、まつ白な額があらはれて、普段の日にやけた顔を一層黒く見せた。彼は、急く氣を靜めるやうにして、上衣の釦をはづし、汗でにた/\とする胸に風を入れたりした。
 S市の街道を通つてくるときには、嚴めしく突ッ堅めた顔が、はじめて本當の哲二に歸つたらしく、子供のやうににつこりと笑つた。と云ふのも、彼が監獄か何かのやうに思つてゐる兵營から脫けだして、小鳥のやうに飛び廻るこのとできる悦しさに、若い胸の血の踊るのを押へることが出來なかつたからであらう。
 新綠のなかに、見えかくれする百姓家、まだすき返さない田甫一面に、紫、赤、白などをまぜた蓮花草、殊にもいろ/\な香を含んだ微風が、ゆるやかに流れまはると、どこからともなく、麥の穂の薄綠色の波が起つて、菜の花の花粉に酔つた蝶々が、ひら/\とまひこぼれたり、風のなかを泳いだりした。
 野道を橫切つて、足許をぬる/\と滑る小河の水が、薄曇りの底明るい海氣の滲んでいる眞珠のやうな空色を映しだしてゐた。
 ひと息吐くと、彼は、汗をふき/\たちあがつて、またせか/\とあるき出した。
 廣々とした田甫のそこ此處にある村の間をぬけてゆくと、彼の眼の前には海の景色が一歩/\にひらけてきた。
 もう、黒い松原の間から、波にぬれた砂濵が見える。その向うに盛りあがつたように見える濃碧の海原は、どこから起るともない白い波を松濱の方に押しよせて、岸へ/\と打ちつけてゐた。
 哲二の胸は、かうした海の美しさにのみ波打つだけであらうか。ふ思議な樂しみが、彼を待つてゐるのである。
 それは、梅の花が寒むけに光つてゐる頃のことであつた。哲二が、中隊の兵を連れてこの海岸へきたとき、とある村端れの茶屋で、ふとしたことから知り合いひになつた、船頭の親方のハーキュリスのような好老爺が、彼をまつてゐたのである。
 哲二にとつては、地團太をふみ身をふるはせるほど戀しく思はれる、あの船頭の倉吉爺の住む漁村が近づいてきた。懐かしくてたまらない海の匂が漾つてきた。
 海よりの方と、松原の方へはいる別れみちまでくると、彼は少しくやせた顔を右の方に傾けてたち止まつた。
 すぐ爺やの所へ行かうかしら。まてよ、それとも、この前初めて逢つた茶屋まで行つてみようかな? 茶屋にはゐないかもしれん。三四艘でいつも乗り出すと云ふことだつたから。まあ、とに角茶屋へゆかう。そこから何處へでも、爺やのゐる所まで案内してもらはう。かう考へをまとめると哲二の胸は、どき/\ッと高鳴つて、悅しさに全身がぞくぞくとしてきた。
 氣が急くにもかゝはらず、倉吉にあふ前の悅びを、泌々と味はひながら、哲二は道ばたの土手に腰をおろした。手袋をとつた右手をポケットに衝つこむと、新らしい俸給袋の角が氣持ちよく指にさはつた。
 と、彼の眼には、倉吉の顔が浮かびだした。栗のいがのやうなごま鹽頭、きよとんとした人の好さけな眼つき、大きい鼻、部厚な唇がくつきりと見えてきた。それにつれて大きな手足や、子供のやうに出張つた下腹や、可愛らしい笑顔までも思ひだされた。
 來るならニ三日前に端書でも出すやうに倉吉から云はれたのだが、哲二は自分に對して何の心設けのない倉吉が見たさに、殊更ら手紙を出さずに、だしぬけにやつてきたのであつた。
 哲二は、ふと、同性愛の對照をなくした外國のある紳士が、泣きながら月の夜更けに海邊を歩いてゐたとき、突然、夢かと思はれるやうな、大兵な漁夫に出逢つて、前に亡くした偉丈夫の再來を神に感謝したと云ふ、胸の内の悅を思ひだした。哲二には、そのあはれな紳士の氣持がよく解つた。海に立つて、胸をとゞろかせたり、うれしがつたりした紳士の寂しい姿がみえるやうな氣がした。 
 戰場に見た恐ろしい死の影も、幾回か經た重い負傷も、哲二は烈しい意志の力で征服してきたのであつた。が身内から起こつてくるかうした不思議な魅力をどうすることもできなかつた。
 哲二は、十七の秋から八年ほど軍隊生活をしてきた。その間ぢう壓へつけられて凍てついたやうな美しい情緒は、ある動機から不思議な方へ芽を出したのであつた。で彼のミケランゼロが憧憬れたやうな力强い男性の肉體美に靈魂のとろけるやうな魅惑を感じるやうになつたのであつた。
 彼は、初めて倉吉に逢つたときのそのもの云ひを思ひ出して、につこりと笑つた。そのとき倉吉は、白粉と紫がゝつた顔の木地が、別々に光るやうな、血太りのした茶屋女のなかに大あぐらをかいてゐたのだつた。
「こんなよかいな軍人さんと飲んだら、酒もうまかつぺなあ。おい軍人さんや! お前一人でよつくら遊びにきなせえや。靜かなとこがよければ別荘もあるだよ。こんな片田舎でもあまツ子だつて何ほでも好きなのがゐるだから……あツは……ァ……」
 めぐりに立つてきいてゐた兵士たちが、おもしろがつて笑ふと、倉吉も大きなからだをゆすつて笑つた。赤い歯ぐきの端れにくツいている黒い歯をむき出し、眼頭にはみだしてる白い肉をふるはして笑つた。その時にちらりと見えた胸毛あたりから、熟柿のやうないゝ匂ひのする酒の氣が、むつとするほど氣持よく哲二の鼻を打つたのである。
 彼は、なつかしげに、あたりの匂を嗅ぐやうにしながら、急にたちあがつて、漁村の方へ駈けだした。
 藍色に染まつた遠くの山の上に落ちついた夕日は、ルビイのやうな光を斜めに海に投げかけて、黒ずみかゝつた水の面に點々と浮いてる帆を、眞ツ白く光らせてゐた。

 

(誤字脱字ご指摘いただけますと助かります)

 

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