メガネの備忘録

文豪の人間関係にときめいたり、男色文化を調べたり、古典の美少年を探したりまったりワーク。あくまで素人が備忘録で運用してるブログなので、独断と偏見に満ちており、読んだ人と解釈などが異なると責任持てませんので、転載はご遠慮ください

綿貫六助「小松林②」『霊肉を凝視めて』より 

 夕暗のなかをたどつてきた哲二の眼には、吊り洋燈の黃色い光が、軒に斜に立て掛けてあるよしずのわきから、まばゆくばつとさしてきた。と、倉吉のなつかしい橫顏が、くつきりと彼の眼に映つた。彼は、店には入るのをことさらためらつてゐた。悅しさに踊る胸を兩手で押さへながら。山羊のやうな眼が、ちらりとこちらをすかして見た。
「誰かきたやうだ。たれしや?」
 太い地方訛の聲が、靜かな漁村の夕暗のなかに響いて、大きな躰が少しく前こゞみのまゝゆらゆらと出てきた。哲二は、それに吸ひつけられるやうに急いで近づいた。倉吉は、太い煙管を掴んだまゝ、上野り框の端まできてちょつと腰をかがめ、長い眉毛の下から嗅ぐやうにすかして見た。
「やあツ、中尉さんか。よツくとこらしツたなあ!」
 倉吉は、自分の眼を訝かりでもするやうに、夕暗のなかをまぢ/\と見すかしてゐたが、うれしけな氣持は、顏ぢうに浮き上がつてゐた。哲二は倉吉を慕ふ自分の心持とは、まるで別なことを云つてゐた。

「海の景色も隨分よからうと思つて、散步かた/゛\やつてきたんです……けど……」
 かう云つて哲二が甘へるやうに肩をすぼめると、倉吉はにがみ走つた顏ぢうを子供のやうに笑ひくづして、幅廣の肩をゆすりながら。
「よツくこたしつたなツ! 足が疲れさツたんべ。はーあ! 可愛いな軍人さんは。よつぽどおそくあつつアさ出てこらしたか? 道が隨分と遠かつたべなツ。」
「いゝえ。大變に近かつたんです。子お前の半道ぐらゐにしか思はれませんでした。」
 倉吉の方では、思ふ存分に、その胸の思ひを云い表はすのに、哲二は、倉吉を戀しいと思ふ自分の氣持を少しも云い出せなかつた。倉吉は肉づきのいゝ尻ツぺたじゃらすべり落ちさうなへこ帶に、大きな煙草入れを差しこみながら、
「まあ、こツつア上らんえツてば、中尉さん。」
 哲二は、いそ/\と火鉢のそばへ座つた。腰掛けで、コップをあほつている老爺が、驚いてこつちを見てゐる。今迄女とふざけてゐた若い衆も、急に座りあがつたりした。女たちも金切聲を潛めて驚きの眼を哲二の方に向けた。で倉吉は得意げに、女たちを叱り廻したり、要もないのに何か云ひつけたり、女たちに一言云つては哲二の顏をのぞき、また一言云つては哲二の眼を見た。 するうち奧の障子の影から出てきたのは、三十恰好のちよいと垢ぬけした女であつた。哲二は眼早く、妾だなと觀てとつた。と急に云ひやうのないさびしさや、燒きつくやうな嫉ましさが、哲二の胸のうちを搔きむしつた。
 倉吉は、火鉢の向うにあぐらをかいた。
「よツくこらしつた。ふんとに、よツくきてくらツしつた。今夜は、林の家さいつて飮むべえ。夜なかになつたらば、海からお月さまもあがらつしやるべえ。あツつアの家さ泊りさせえてば! な? 中尉さんや。」
 かう云いながら、障子のそばに立つている女の方へふり向いた。その自慢らしい倉吉の顏が、哲二には、にくらしくも、可愛らしくも思はれた。女は、艷のいゝ丸髷の手柄の淡紅色と、圓みのある顏の薄化粧がしつくりとあつて、紡績か何かの大柄な模樣の袷に、繻子の丸帶もよく似合つていた。めりんすの襦袢の下からすつと出た、ぽつちゃりと太つてる白い手が、古風な銀の平らうちのかんざしに觸つて、たつぷりとしたたぼのあたりを輕く掻いたりしながら、

「いらツしやいまし。」
 甘つ苦しい嬌態をしながら、魅力のあるぱツちりとした眼を哲二の方に向けた。
「おとツつアん! 私の留守に大勢の兵隊さんと一緖にきた、おもしろい將校さんちうのは、このお方なのかえ?」
 と、倉吉は、にこ/\しながら、
「うむそうだ。中尉さんだ。渡邊中尉さんだ。ほうれ、おたつ、何うぼんやりしてゐるだ? お茶を入れろ。」
 おたつに凝つと見られると、哲二はぽつと顏を赤くした。
「この前は、隊のものが大勢あがりまして、いろ/\お世話になりました。」
 おたつは、徐めに座つて、ぺツかりとしなふ白い指を疊につけた。
「はあ、さうでしたか…… よくまた、お出でくださいましたこと。」
 哲二は澁色の頑丈な爺と、美しい女を見較べながら、自分が憧憬れて倉吉のうちに求めてるものは、もう、とうの昔に、この女の手に確かりと握られてゐるなと思つた。ゐてもたつてもゐられないやうな、ねたましさや焦燥立たしさが、ぐる/\と胸のうちを渦卷いた。倉吉は、大きな獅子ツ鼻を、掌ではすに上の方へこすりあげながら、
「中尉さんや、これはうちのばゝあだ……」
 おたつは、續いて特別な聲を出した。
「まあ、お初めて、どうぞよろしくお願申します。」につこりとして、大きな丸髷をさげた。哲二の暗くなつた顏を、倉吉は過ぎにみて取つた。
「これおたつ、おめえ本家へ行つて、作のやつこに林のうちさ掃除させろや。あかしをもつてつてな。」
 おたつは、倉吉と何か眼くばせをしながら、帶の上に前垂をしたり、白地の手拭きをおツかさん被りにしたりして、そは/\とでゝ行つた。で倉吉は、哲二の顏を見入つて。
「あれはこの店を預けとくだけなんだ。下女と同じだ。何も心配はねえだ。俺らはもう年さ取つたで、女にヤ用はねえだ。中尉さんやお前と二人で飮むのが一ツちよかいだから。」
 倉吉は、かう云ひながら、大きな手で哲二の肩を掴んでなだめた。哲二はおたつがゐなくなると、爺に對する恨めしさが高じて、ぐつとこみあげた。あぶなく泣きださないばかりになつて息をはじませてゐた。が、倉吉が自分の微細な氣持を、よく知つてゐてくれたのが、うれしかつた。で哲二は、たうとう、なき出してしまつた。

 

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